僕の他者論の記号学的意味
外部は他者の一様態である。
この話を僕はどこにおいても聞いたことがない。僕の中にある話なのだ。
僕らは自分の話を援用してくれるように話を曲解しその道筋を自らの道筋に合わせてしまうが、僕はそのように曲解してしまうような話さえ持ち得ない。
他者というと、基本的には自分以外ということになる。
しかし、不思議なことにこれは外部という言葉にも適用される。
両者の違いは何かというと、簡単に言えば実体があるかどうかである。
実体という言葉は存在という言葉に近似している言葉である。
ハイデガーは自らの「哲学」と呼ばれている思考についてそう呼ばれることを否定して「存在の回想」と呼んだ。
この話の意味さえも僕の思う話には関わってこないし、言い方が悪いかもしれないが、僕の話へと曲解することはできない。
つまるところ、僕は自分のこの他者論について有益な先導者を知らない。
僕の考えが誰の歴史のどの部分に嵌め込まれるのかもわからない。
僕はかの言語学者(ソシュール)のように自らの他者論が記号学という大きな学問の一つの分野を担うことはわかるのだが、その全容を理解していない。
けれども、僕の他者論をいくつか例を示しながら明らかにする作業は不可欠である、
僕はここで新しい他者論の必要性ではなくその他者論そのものを述べる。それの利用性を僕は知らない。そして、きっと知り得ない。僕は自分と同じものを、もっと言えば同じようなものさえ見ていないのだから。
言語というのは、二項対立が生み出す差異の体系である。
そして、僕たちはその差異の体系が持っている記号の作用によってコミュニケーションを展開する。
言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。
これは内田樹氏が『寝ながら学べる構造主義』の中で何度も述べている言葉である。
僕たちは言語という体系の後ろ盾である記号を適切に使用できない。というよりも、適切に使用することを許されない。
差異の体系というのは二重性がある。一つは二項対立の差異、そしてもう一つは人それぞれによる差異である。
僕の持つ言語体系の差異と他者の持つ言語体系の差異には差異があるのだ。
こういった二重の差異の中でわれわれはコミュニケーションを生み出しているのである。
けれども、僕たちはその差異の違いを無視して、その後ろ盾である記号そのものを持ち出すことがある。
記号間の差異もあるが、それはおそらく区別の帰結である。なのでここでは深く論じることはしない。
僕がここで述べているのは他者と外部の関係である。
多くの人は、外部という概念が他者という概念を包含しているように思っているかもしれないが、他者という概念が外部という概念を包含しているのである。
他者はその理解不可能性において自分を圧倒するが、外部にはその理解不可能性が厳密に言えば存在しない。
だから、外部というのは、他者に包含されている。
そして、そう考えると、僕たちが他者と読んでいるものは、必然的にその架け橋を持って外部という内部に侵入しているのである。
僕はその侵入しているその瞬間のみに注目するから他者というものが外部に包含されていると勘違いしてしまっているように考えている。
僕がこれほどまでに他者を外部よりも大きいことを主張したいのは、他者という存在を僕たちは誤解した方法で理解していると強く思うからである。
他者というのは、厳密に自分と違う存在である。そして、それは理解できない存在である。僕たちが融和できる存在である外部というのとは明らかに違う。僕たちの理解できないところに、つまり、僕たちの言語体系の外に他者は存在する。外部というのは、言語体系に取り込まれていくのだが、他者はその言語体系をも超越してくるのである。
そして、自らの言語体系が超克されたという感覚こそ、真に人間的な感覚であるように思われるのである。
僕たちの言語体系はその言語体系の保持者の人生そのものである。外部の言語体系が僕たちを超えることはあっても超克することはない。けれど、他者の言語体系は僕たちの言語体系を超克する可能性があるのである。
僕はそのただ一点から他者を見てしまう。だから、僕の中の他者はすべてを包含するのである。外部という言葉では片付けられない。外部よりも大きな人格を持った他者。その存在を信仰してしまうのである。
わからない人は分からなくていいし、理解したいと思わない人は理解しなくてもいい。これは強がりなどではなくて、その時間を自らの思考に使って欲しいからである。
けれど、僕の話がわかる人やわかりたいと思う人は何度も僕の話を聞いて欲しい。それが僕の言語体系を超克する契機になるのならそれほどまでに充実した言葉はないと思っている。