名句の(名句たる)所以(取合せと一物仕立て)

私の知り合い(向こうは私を知らないかもしれないが)の名句に以下の句がある。

ネモフィラの小さく青い地球かな

たまに「青い」が「蒼い」になっているが、私はこちらのほうが好きなのでこちらで引用させてもらう。

ここで考えたいのはこの名句の名句たる所以である。私は何度かそれをしてきたが、ここでは新しい要素がある。それが「取合せ」だ。

俳句の「技法」には「一物仕立て」と「取合せ」があります。いま、私は俳句の勉強中、勉強し始めなのですが、さすがの私でもこれは知っていました。ただ、それを少しだけ深く知ることでかえって上の句が名句である所以が掴みづらくなったのです。

ここからは堀田季何の『俳句ミーツ短歌』第八章「1+1=1」の議論を手がかりにしつつ考えていきます。

堀田は言います。「一物仕立て」は「一つの句で一つの物事(たいがいは季語)について表現する詠み方」であり、「取合せ」は「一つの句に二つ以上の物事を配置する詠み方」である、と。そして、「こう説明すると非常にシンプルな感じがしますが、実際に句を解釈する際には人によって意見が分かれがち」だと言い、自身は「三種類の取合せ」があると考えていると言います。

それを説明するために堀田は六つの句を挙げ、それぞれ二つずつに分けています。まず、堀田が挙げている句を引用しましょう。(一応番号をつけておきます)

① 木犀や同棲二年目の畳 高柳克弘
② 遠火事や玻璃にひとすぢ鳥の糞 相子智恵
③ さまざまの事思い出す桜哉 芭蕉
④ 一生に打つ一億字天の川 堀田季何
⑤ 万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや
⑥ 蟻穴を出づ電力の逼迫す 志田千恵

(すみません。芭蕉の「さまざま」の「ざま」は省略が使われているのですが私の執筆環境での出力の仕方がわかりませんでした。すみません。)

この六つの俳句を挙げた上で堀田は次のように説明します。

六句とも取合せの句です。一句目と二句目は、いずれも、一つの情景の中にあるものを組合せています。屋外の木犀が畳の部屋に薫ってきていますし、ガラス越しに、ガラスに付着した鳥の糞と遠景の火事が見えます。三句目と四句目は、イメージが雰囲気的に響きあう事物の組合せです。想念と季語の組合せになることが多く、それぞれ、追憶と桜、一生に一億字くらい打っているという推測と天の川です。一つの情景をなさないものの、情緒的に通じ合っていて、二者のイメージ的な距離は近いです。五句目と六句目は、「二物衝撃」とも呼ばれる取合せで、驚きをともなうイメージの組合せです。万有引力と馬鈴薯のくぼみ、穴を出る蟻と電力の逼迫は、イメージ的な距離は遠く、細い糸でしかつながっていません。これについては、後ほど、もう少し詳しく説明します。
127頁

とりあえず「後ほど」のところは置いておいてください。ここで確認して欲しいのは「取合わせ」が「組合わせ」によって作られていて、ここではその「組合わせ」のパターンによって三つの仕方があると言われていることです。ここからは①と②の仕方をA、③と④の仕方をB、⑤と⑥の仕方をCと呼びましょう。この三つの仕方ABCをさらに二つの対比に分けるとすれば、A/B・Cが「実景=実際に見えている情景/想景=イメージで見ている情景」という対比で、B/Cが「イメージの距離が近い/イメージの距離が遠い」という対比で整理することができると思います。もちろん、「想景」というのは聞いたことのない用語ですし、「イメージ」という概念も聞いたことがあり過ぎる概念ですし、それゆえにわかりにくいと思いますが、とりあえずこのように言うことができると思います。

堀田はこのように書いた後、高濱虚子の「客観写生」における制作態度として「ぢつと眺め入る」ことと「ぢつと案じ入る」ことがあるという話をしています。そしてなぜかよくわからないのですが、より細かい手法として小澤實の俳句に触れています。なぜなんでしょう。よくわかりません。

ここから堀田は「二物衝撃」を提唱した山口誓子の「写生構成」という映画的な手法に触れ、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷といういわゆる人間探求派の俳句の「想念と季語」が「容易に想像できる」わけではないが「近い距離」にあるというふうに言います。山口誓子と人間探求派は「季語とそれ以外のつながり」のわかりやすさによって対比されています。山口誓子のほうはわかりやすく、人間探求派はわかりにくい。ただ、人間探求派も「近い距離」にあるイメージ同士を「取合せ」ているからわかりにくいけれどもわからなくはない。おそらく堀田はそう言いたいのだと思います。そして、その発展形として狭義の二物衝撃、上で言うところのCがあると言います。そして次のように述べます。

先ほどは、例として<万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや>を挙げてみましたが、作者自身は、このような作り方の句について、「ある季語に、思いもかけない取り合わせだけれど、深いところで繋がっているものをぶつけて、そこで新しい火花が生まれることを期待する」と述べています。
「深いところ」というのはとても上手な表現です。一般に文芸の世界では「深い」というのは、「浅い」よりも良い意味で用いられます。ただし、「深いところ」というのは、地表からは見えない場所でもあります。イメージ的な距離が遠いのです。地表にいる読者の多くが、「何でこの二つがぶつかっているの?」と首をひねって通り過ぎるようなおそれもあります。
私は、先ほど「細い糸でしかつながっていません」と書きましたが、この細い糸のつながりが大切だと思っています。連想ゲームでいえば、二段階か三段階くらいの連想で二物のイメージがつながる感じです。それよりも近いと、太い糸になってしまい、驚きが生まれるような二物衝撃の形にはなりません。逆に、何の脈絡のない二物を組合せただけでは、チグハグで珍妙な取合せになってしまうだけで、衝撃は生まれません。
135頁

それにしても、ここまでずっと堀田俳句を作る人の立場に立って、いわゆる制作論に立って、受容論ではなく制作論に立って論述してきています。それはこの章の最後の一段落、上に引用してきたものに続く一段落に顕著に現れているでしょう。

どの取合せの形にしても、大切なのは、読者を引き付ける力が句にあるか、そうでないかです。その力のもとになるのは、二つの要素のつながり方です。思いつきで二つの何かをぶつけただけでは、火花は発生しないのです。
135-136頁

ここでは「読者」の読む力はまったく想定されていません。言うなればブラックボックスとしてある程度の美醜はわかる、そんな「読者」が想定されていると思います。別にそのこと自体はいいのですが、私は「読者」について考えたいような気がしています。が、とりあえず置いておきましょう。ただ、これに触れたかったのです。なぜかわかりませんが。

堀田が小澤實に触れたところだけが私にはよくわかりません。ただ、当てはついています。それを明らかにするために整理していきましょう。いや、実感としては整理されていくのを見ているだけなのですが。

………なんというか、整理されていきそうな予感はしたのですが、そしてそれが「ネモフィラの小さく青い地球かな」が名句たる所以に関係がある予感はしたのですが、うまくいきません。うまくいきませんでした。

今回は失敗です。

無理やりガギゴギ進めることにしましょう。スマートさはなくなりました。残念ですけど。

私はAとかBとかCとか言っているときには「実はこの句(「ネモフィラの小さく青い地球かな」)はCでもBでもなくてAなんだ」、か、もしくは「実はこの句は『取合せ』じゃなくて『一物仕立て』なんだ」、みたいなことを書こうとしていました。たぶん。でも、進んでいくうちに(どこでそうなったかは特定が難しいのですが)「一物仕立て」も「取合わせ」じゃん、と思い始めました。私が小澤實の手法が突然紹介されたことにやたらとこだわっていたのもそれが原因です。おそらく。(まあ別に、読むとそこだけ浮いている≒突然紹介されている気がするのは誰でもそうだと思いますが。)紹介されている小澤實の句は堀田の言うように「一度モノを描写してから切り、さらに、細部の様子や追加動作などの描写を加えて深掘りする」ことで句が「より映像的になる上、詩情も生まれてい」ると思います。ああ、なるほど、「映像」から山口誓子の「映画」的な「時間の切り取り方の美しさ」へと向かう流れか。まあそれにしても、そうだとしたら山口誓子ごと浮いてるか。そこだけやけに手法的なんですよね。態度と方法が接着しているというか、そういう感じが高濱虚子や人間探求派、奥坂まやにはあるのに、山口誓子と小澤實にはない。言い方を変えれば、小澤實や山口誓子には「読者」の「ある程度の美醜はわかる」というブラックボックス性があまり想定されていない。複雑な変換が起こることが、さまざまな解釈があり得えるという感じがしない。このことを追いかけて私は「制作論/受容論」も持ち出してきたのでしょう。まあ、最初から私は自分の俳句、あ、「ネモフィラの小さく青い地球かな」は一応自分が書きました。それを名句だと銘打つのが恥ずかしかったから「知り合い」という表現をしたわけではなくて、私はこれをどういう「態度と方法」で書いたのかを忘れてしまっているのでこれをほとんど「知り合い」みたいなもので、この句を書いた私はいまこのように「どうして名句なのか?」とぶよぶよしている私は知らないから、「知り合い(向こうは私を知らないかもしれないが)」と書いたのだ。ただ、そうであるとするならば「知らないかもしれない」ではなく確実に「知らない」とも言えるだろうから、ここもなんとなくで書いていたのだろう。

私はお風呂で、湯船でこの文章、なんとなくこんな感じのものを書こうというのを(失敗するとは思ってはいなかった(いや、なんとなくそうなるかもしれないとは思っていたかもしれない)が)思い描いていた。そこでは最終的に、「ネモフィラの小さく青い地球かな」は「ネモフィラと地球」に着目すれば「取合わせ」で「小さく青い」に着目すれば「一物仕立て」である、みたいなことを書こうと思っていた。が、「ネモフィラの小さく青い地球かな」は思ったより名句であり、俳句は思ったよりも奥深いものであった。そんな感じである。

ああ、あと、「小さく青い」は「読者」を信用していなさすぎて、なんだかそれで、もしかしたら名句じゃないかも、と思ってお風呂に入った。堀田の議論を読んで。ただ、やっぱりそのようには思えなかった。「ネモフィラの小さく青い地球かな」は名句である。間違いなく。そのようにしか思えなかった。ただ、困ったことに私自身が書いたものだからそのように思いきることはできなかった。恥ずかしいとかではなく、私はすでにこの句の来歴も見えているビジョンもありありと知ってしまっているから。

「あ、あと、」と言い続けてしまうので今日はここら辺にしよう。失敗だったけど、なんというか、実りがなかったとはまったく思わない。むしろ実りはたくさんあったように思われる。これからの課題というか、ビジョンとしては「詠み手/読み手」における「一物仕立て/取合わせ」という二軸四領域で考えていきたい。とりあえずは。では。

推敲後記

手短に二つ。一つ。これはややこしくなるし専門的でもあるから書かなかったが、ここには「一回性と反復」と「同一性と変化」に関する、そして「現実性」に関する入不二哲学の影響がある。もう一つ。私は特別意識しなければ「俳句を詠む」ではなく「俳句を書く」と書いてしまう、し、本文でもそれは残っている。ただ、私はどうしても俳句、に限らず詩は「書く」ものだという感じがする。最後は「詠み手/読み手」というふうにしているが、それは「よむ」の二重性(「詠む」と「読む」)を強調したかっただけだと私は思う。本人、本文を書いた私がどう言うかはわからない。ただ、本人も「書く」と書いているところがあるからこのように言われたら納得するだろうと思う。これからの課題として「書く」と「詠む」の違いを明らかにすることもあることになった。では。そろそろちゃんと終わろう。にこにこ。

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