「適当に書く」ためにどうすればいいかを適当に考える
適当に書きたい!そんなふうに思います。ただ、ただそう言うだけじゃあ適当に書くことは難しいのでシステムを整えていきましょう。
まず、「適当に」というのは「いい加減に」ということであることを確認しておきましょう。「いい加減に」というのは「いい感じに」ということではありません。「いい感じに書く」ときの「いい感じ」くらい適当だということです。わかりにくいかもしれませんが、そんな感じです。
で、そのことの障壁となるのは(いま思いつく限り)三つのことです。それぞれを適当に名づけると①推敲、②参照、③記事化、です。①と③は関係が結構あると思います。とりあえずそう言っておきます。①から確認しましょう。
ここで「推敲」と書いたのは「記事化」に関わります。というのも、「記事」にしない限り、私はそれを「推敲」とは呼ばないからです。「修正」とか「補足」とか、基本的にはそんな感じで言っています。私の「書く」のリズムは大抵、「書く」「置く」「読む≒修正・補足する」というリズムで構築されています。「置く」の長さは「記事」によって違いますが、とりあえずこのリズム自体は存在します。簡単に言えば、私は「読む≒修正・補足する」≒「推敲」するということをどうしてもしてしまうのです。というか、もっと問題的に言えば、問題であるところを焦点化すれば、私は大抵「推敲」において「修正」だけしようとしているのに「補足」してしまうことが問題なのです。もっと悪い(まあ、完全に「悪い」とまでは思っていませんが)ときは「解釈」までしてしまいます。もちろん「解釈」にも次元があって、「補足」や簡単な、例えば誤字の修正等々以外の「修正」にも「解釈」は必要不可欠です。なぜなら、一つの「記事」をどのようなものであると考えるかによって「修正」にも「補足」にも「解釈」は混じるからです。しかし、その成分が多くなってくるとそれ自体が一つの「記事」的なものになります。それが「解釈」と呼ばれています。ああ、適当に書けませんでした。残念です。
とりあえず「記事」(ここでの「記事」は「投稿する」ものくらいの感じで捉えてもらったらいいですが、具体的に言えばnoteに「投稿する」ものがほとんどです。)にするから「推敲」が必要になるのです。ただ、「記事化」の弊害、適当に書くことに対する弊害はそれだけではありません。もう一つ、私はとりあえずもう一つ感じています。適当さを阻害するものを。それは「記事」にしようとしすぎるとばらばらのものがそれとして存在しにくくなるということです。
例えば、(こんな適当な段落変えを普段はしません。なのでいい感じです!まあ、そう書くと逆に適当になりきれていないとは思いますが………)最近の私の「日記」(これは私のマガジンのタイトルです。どういう感じかはどこかの週を読んでもらったらわかります。)はこんな感じになっています。「Aについて書く→何か書く→Bについて書く→Cについて書く→何か書く→Dについて何か書く→Eについて何か書く→Fについて何か書く………」みたいな感じになっています。以前はもっと適当で、しかも「日記」に何かについて書く文章はそもそも入っていなかった、そんな感じでもあったと思います。それがいつのまにか「日記」に入ってきて、それで適当に書いたことが一つの形になってしまっているのです。まあ別にそれ自体はいいのですが、なんというか、適当に書くこと自体が重くなってきてしまっているのです。そのことによって。鈍重なのです。だから適当に話し出すことができないのです。最近仕事先のコミュ力(相手を支配するコミュニケーション能力ではないほうのコミュ力)の高い人がすごくどうでもよく、さらに言えばフリもオチも特にない話、さらには仕事が来て途切れそうな話をそれでもなんの躊躇もなく話し出すのを見て、それをそれとして見て、私は自分の話し出しの重さを理解しました。適当に話し出したらフリとオチとまでは言わないものの何か文学的な、もしくは哲学的なことを書かなくてはならないという強迫感が最近はあるのです。
さらに言えばその強迫は「書く」「置く」「読む≒修正・補足する」のリズムにも影響していて、最近はやたらと「読む≒修正・補足する」が重いのです。
これはどういう問題なのでしょうか。信頼?みたいな問題なのでしょうか。読む人を信頼していない。そんな感じなのでしょうか。これを読む人はここからなにも引き出せないだろう、そんな不信が染み渡っているのでしょうか。とりあえずそういうことにしておきましょう。
②について考えてみましょう。「参照」です。ここで言っている「参照」というのは何かについて書いているとき急にそのときに読んでいる本や見たものについて何かを書くことを指しています。例えば次のように。(文脈を説明するのが面倒くさいので感じだけ感じてもらえればいいです。)
なんかいろいろ書いて、突然私は「そう思うと福尾匠が哲学と芸術の関係を哲学の側から見ることと超然として見渡すように見ることの関係について考えていることが私は根本からよくわかっていないのかもしれない。」と福尾匠という人の話をする。これは私が最近福尾の本を読んでいるからそうなるのです。というかそもそも、その前の「どれだけ他者のことを、複数性のことを、有限性のことを、偶然性のことを考えても」という言い草がすでに『非美学』(もっと細かく言えば第六章の第二節「東浩紀の線と面、あるいは言葉と物」)における福尾匠的なのです。詳細は面倒くさいので言いませんけど。だからこそ急に福尾の話になるし、私はそれを私の話みたいに話している自分が半分くらい許せなくて半分くらい好きで福尾の話をしてしまうのです。そして福尾と私の話を急にして、はっと気がついて「福尾の話ばかりするのはやめよう。」と言いつつも「いまだにちゃんと違和感がある。福尾匠に。いいことだ。」とも言う、そんな曖昧さをそれとして保とうとするのです。そして鈍重になるのです。
これの背後にある欲望についてあとで書くならあとで書くとして、とりあえず適当に書くことにとって重要なのは誰か的な言い方をしても別に剽窃でもなんでもないということを強硬的にでも理解することだと思います。別に「参照」するのがいけないんじゃなくて、それによって賦活されないことがいけないんです。
いや、奥にはもっと深い問題の根があるんじゃないか?
そうなんですよ。結局私は他人を触発したいと思ってるんですよ。一人で喋るんじゃなくて。それは成長だと思いますよ。私は「成長」という概念のアレルギー、生理的嫌悪すらあるのですが「成長」に、しかしそう言い切りたいくらい成長だと思います。私はちゃんと他人に向けて書いている。しかもその「他人」を「未来の私」に限定せずに書いている。そのことと何かがぶつかっているんですね。ここでは。
それは何か。それはおそらく、上で背後にある欲望という大仰な言い方をしましたけれど、文学や哲学は生活と共にある、みたいなことを示したいという欲望です。私は文学や哲学を読んで文学的に哲学的に生きている。その事実と書かれるものが繋がってほしい、そんな欲望です。二つの言い方をしたように見えるかもしれませんが、これらはおそらく別のことです。とりあえずこの二つの識別しにくい欲望によって私はどうにも鈍重に書いてしまうようになったのです。おそらく。
どうするのが適当に書くことにとって手っ取り早いのでしょうか。私は当事者として「記事」にすることによって得られる賦活力を「記事」にすることとは別の形で、もしくは「記事」にすることを別の形にすることで得られるようにする、みたいな方法しかないと思っています。私は、ここまでの表現を用いれば、「推敲」と「参照」に快楽を感じるのです。そしておそらく、「記事」がそれらを許してくれるような気がしているのです。ここでの「快楽」は「賦活された」というそれ自体捉えどころのない確信で、その確信は「記事」によって支えられているのかもしれません。リアリティを追い求めているのです。私は。おそらく。「快楽」や「賦活」の。
軽く書きたいという決心は重たいものです。だから私は………とりあえず、オイルレスリングのような感じで生きていくことにします。意味がわからないかもしれませんがとりあえずそういう感じで生きていきます。
推敲しました。「補足」をぐっとこらえて、ところどころしてしまいましたがぐっとこらえて、「修正」をしました。偉い!頑張りましょう。リハビリ的になり過ぎないように注意しながら。