ふらふら考える

私はお酒をたくさん飲んで、結婚式の二次会で飲んで、それで疲れている。酔ってはいないが疲れている。

「文学は恐ろしくて読めません。」何回か言っている。まあ、ただの怠惰を「恐れ」で粉飾しているだけ、なのかもしれませんが。

「粉飾しているだけ」というのはずるいやり方だが、ただ、それでも使いようである。ここでの「ずるい」というのはなんというか、その論法を使うならある程度守らないといけないラインがあるよね?みたいなことである。

この「ずるい」はこの「粉飾しているだけ」だけではなく、例えば「わざわざそう言っている」とか「本能がそうなっている」とか、そういう場合もある。「なんでもそう言える」論法を使っているのに、そこから進もうとしない人に対して私は「ずるい」と思うのである。そしてこの「ずるい」を避けるためにはそれらの論法を使いつつ、その論法の限界を明確にしなくてはならない。その方法にはおそらく、「有限化」をテーマとする仕方と「構造」をテーマとする仕方とがある。というか私は前者を主に千葉雅也から、後者を主に永井均から学んだ。というか、ここで考えているようなことを考えるときにやっと千葉雅也と永井均は同時に思い出されるのである。

最寄り駅から30分くらい歩かなくてはならない。別に歩こうと思えば歩けるが、体力が無さすぎる。どうしよう。タクシーに乗ろうと思えば、おそらく乗れるのだが。

ラジオを聴きながら帰れば、何も考えずに済むだろうか。ただ足を前に進め、前に進め、私は家に着くのだろうか。着くのであろう。それはわかっている。それはわかっている。

歩くことにしよう。たくさん寝よう。たくさん寝よう。明日は夕方からしか予定がない。明日は夕方からしか予定がない。

のらじおの「論理が難しい」というエピソードを聴こう。適当に茶々を入れよう。茶々を入れてしまう私。承認欲求?「なんでもそう言える」。

いや待てよ。今から聴き始めても最後まで聴けない。

眠たすぎる。

何かを開発しよう。楽しみを開発しよう。私はそれによって生きてきたじゃないか。生きてきたじゃないか。

ギチの完全人間ランドを聴こう。エネルギーを借りよう。間借りのようなもの。借りてきた猫のようなもの。

迷っているうちにラジオが始まった。「次に再生」に追加していたラジオが始まった。歩こう。仕方ない。歩こう、仕方ない。

黙々と歩く。黙々と歩く。

適当に聴いている。神経症なのだ、やはり私は。

同じ方向に歩くスカートを履いた、バッグを肩にかけた、人。ついて行く。ついて行く。いや、たまたま同じ方向に歩いているだけだが、「ついて行っている」ことにする。

荷物は遠くまで歩くときに真に荷物になる。

お風呂入らなきゃ。帰ったら。流石にヌメヌメすぎる。ヌメヌメすぎる。

冷えてきた。お腹が痛い。気がする。

前の人、歩き慣れている。すらりすらりと歩いていく。道なき道のゾーンをすたすた歩いていく。

半分まであと少し。加速してきた。足が、じゃなく、心身が。まだついて行けている。前の人に。そのおかげかもしれない。抽象的な紐帯。いや、極めて具体的な紐帯?

信号を軽妙に無視していく。ついて行く。ライトが眩しい。緑色、明るい緑色。

前の人が家に着いてしまった。さようなら。ありがとう。あとは歩くよ。半分ちょい。

すき家。店内が明るい。一人、なんだか少し楽しそう。黙々と食べていない。私も結局黙々と歩いていない。書いている。ただ聴け、と思うところもあるが。

月が雲に隠れていると思ったら隠れていなかった。やたらと半分な月。

これは人生論的か?人生を解釈に重め。畳め。

「こっから聴いても田川の話だってわかる」というフレーズ。バロック的フレーズ。バロック的スケール。

もう着きそうだ。すごい。たくさん歩いてきた。進化論について思いを馳せた。少し。『理不尽な進化』。

スポンサーを読む時間になる。もう目の前に家がある。スーツを綺麗に掛けて、私はお風呂に入る。

ちょろりさん。

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