「何かについて何か話す」ということ
なにについてもコメントできる人がもてはやされる。それを批判する人がいるにしても、それを批判するためにはそれがある程度は人口に膾炙している必要がある。
それ、そのもてはやしはなにに由来するのだろうか。それはおそらく、他にもたくさんいろいろあるだろうが、私はそれを「何かについて何か話す」の「何かについて」の部分を丸投げしていることの罪悪感に由来するものであると考えたい。
私たちは「何かについて何か話す」。「何か話す」場合も「何かについて」話している。実際話が外から見て噛み合っていなくても(そういうことは往々にしてある)そういうふうに見なさないと話されていることはわかっても「何か話している」ことしかわからない。「何かについて何か話す」という形にしてやっと、話されていることがほんの少しだけわかる。
これは聞いているほうの話だが、話しているほうも「何かについて」という支えがなければ「何か話す」ことはできない。もちろん、ただの一問一答とか、ミームとか、そういうものなら「何かについて」は必要ない。しかしそれらも同様に「『何かについて何か話す』の『何かについて』の部分を丸投げしていることの罪悪感」に由来すると思っている。
「丸投げ」というのは本当に「丸投げ」で、私たちは話したいことを話せない。というかそもそも、話したいことすらない人がほとんどであろう。仮に食い扶持や働き扶持はあったとしても話し扶持がない。それが実感ではないだろうか。
うまく書けないのだが、私たちは話しているとき、聞いているとき、話しているときなら自分から、聞いているときも自分から「なぜわざわざそのことについて話すのですか」と言われそうでびくびくしているのかもしれない。そんなふうに思う。そんなことを思っているのは私だけかもしれない。
しかし、と書いてみたはいいものの、私は他人がどういうことにびくびくしているか、正直知らない。し、正直あんまりバイブスは上がっていない。今日は終わろう。すみません。なにか感じてくれる人がいたらあなたがすごいだけです。すみません。では。
読み直してみても特に優れたものではないと思ったが「罪悪感」なんて本当にあるのだろうか。あるとしてもそれはここでわざわざ書かれるようなものなのだろうか。私にはよくわからなかった。一つだけ役に立つか立たないかわからないエピソードを紹介しておこう。
私は友人に「あなたと○○は話じゃなくて音の交換をしてるみたい。」と言われたことがある。この○○とはいまも友人であり、これを言った友人も最近は会えていないが友人である。近くにいないので最近は会えていないだけである。○○と私は、二人でいるとぼおっとできて、そう言われて以来私はもっと「音の交換」寄りになっていった。それが心地いいというよりもむしろ「話」からの二人での逃走、そしてシェルターのようになっていたのだ。その「話≒音の交換」は。ただ、最近○○にこの話をしたら「覚えてなあい。」と言っていたのでこれは少し「話」すぎるのかもしれない。