正木ゆう子から鑑賞を学ぶ(6)
さっき「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ5」を出したところですけど、すぐに6を出しましょう。ただ今回はいつもしているように『現代秀句 新・増補版』における正木ゆう子の鑑賞から鑑賞のなんたるかを、句の引用、私の感想、正木の鑑賞、感想の変容の順番で書くことによって学ばずに、正木が教えてくれたことから連想したことを徒然なるままに書くことによって学ぼう。こういう軽い回をしておくのも大切なことである。私のリズムとして。
今回は正木の次の鑑賞に注目したい。
私はこれを読んで「方言」に関するいくつかのことを思い出した。
私の友人には広島弁を話す友人と鳥取弁を話す友人がいる。ここで注目したいのは私が彼女たち(どちらも(おそらく)女性である)とどのように話しているか、どれくらい方言的に話しているか、ということである。結論から先に言えば、広島弁の友人とは神戸弁(私は神戸の人ではないが神戸に近い人ではある。)で話し、鳥取弁の友人とは不恰好な仕方ではあると思うが鳥取弁で話している。そのことの不思議を思った。
ただ、二人の友人は別の経路で友人になったのであり、言い換えれば、別の場所で友人になったのであり、関係性も違うから、別にそれぞれの方言に何かがあるわけではないと思う。ただ単に紛いなりにも真似てしまう方言とそうではない方言、というか、真似しているときと真似していないときがある、ということ、それを不思議に思っただけである。
鳥取弁で話している(みたいになっている)とき、私は「似非鳥取弁だと思われないかな」とか、「嫌じゃないかな」とか、そういうことをたまに思う。いまのところ友人はそのように思ってはなさそうだが、そのように思う可能性は大いにあると思う。これと関連しているかどうかはわからないが、次のようなことも連想された。
もうどこで出会ったのか忘れたのだが、神戸弁が非常に好きだ、という人がいて、その人が私たちの神戸弁での会話を嬉しそうに見ている、聞いているのに、なんだか嫌な気がしたことがある。その人は友人、とは言えないくらいの人で、どれくらいあったかは忘れたが、あまり会ったことのない人である。しかし、それがなんだか嫌だったことは結構覚えている。いや、「嫌」というか、なんというか、不気味でもなく、引いているわけでもなく、なんというか、とにかく「嫌」としか言いようのない、そんな感じがしたのである。
このことについて、私は今の今まで忘れていたが、正木の「うぶすな」の説明、そして「冬の菊」の説明から、なんとなくこれらを思い出し、いま私はこの「嫌」が何によるものか、なんとなくわかってきたような気がするのである。
その人に対して私が「嫌」だと思ったのは私たちと仲良くなる気はなく、ただ単に私たちを観察し、それを享受しようとしているように見えたからだと私は思う。いや、思っている。いま。別に仲良くなろうとしてほしいわけではなく、「私とあなたは違います」とにこにこするのがにこにこすること自体ではなく「あなた」のよくわからない享楽、いや、なんとなくわかるような、動物園的な快楽に使われている感じがして、なんとなく「嫌」な感じがしたのである。おそらく。もちろんこれは穿った見方であり、その人も「似非神戸弁だと思われないかな」とか思っていたのかもしれない。いや、その可能性すらないから「嫌」なのかもしれない。
話をギュインと戻すが、私が広島弁を紛いなりにですら話さないのは、心の奥底で彼女が私とは違うと思っているからである。これはいい意味でもわるい意味でもなく、距離を取っているのである。この距離がなんなのかはわからないが、この距離が何に由来するのかはある程度わかる。彼女は私のような似非哲学者ではなく、(彼女自身は気がついていないが)本物の哲学者なのである。それに圧倒されて友人になったから相当仲良くなってからも距離があるのである。確実に。
ただ、さっきも言ったように、ただ単に違う場所で出会ったからこんな感じになっている可能性も大いにある。仮にそうではないとしたらこのように考えられる、ということであり、それだけでしかない。
で、関係ない話ばかりしてしまったが、私が「冬の菊」と関係あるような仕方で「うぶすなの言葉で通す」のは誰なのかを考えると、それは「母」であり、「私が住んでいる街の街路樹」であるように思われる。だから、「冬の菊」という感じはしない。ただ、その「冬の菊」と「うぶすなの言葉で通す」ことの関係自体はなんとなくわかる。そういう意味でこれは秀でた句であり、また、正木の鑑賞は秀でた鑑賞であると思った。
ただ、まっすぐ「学ぶ」ことをした感じはしないのでそういうときは()をつけることにしよう。そうして今回は「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ(6)」となったのである。