二項対立の作り方

二項対立の作り方。それを解説してしんぜよう。と言っても別に、私たちが移動している、スライドさせている、ホログラム的に存在している、三つの領域を示すだけだが。

ただまだ朝で、私は『とるにたらないものもの』をイヤホンもせずに読んでいる。トラックのかすれたブレーキ音がする。金管楽器のような、象の嘶きのような、そんな朝を私は生きている。

だから少しだけ待ってほしい。ただ、別に時間は無限にあるわけではない。お昼はご飯を食べに行く。友達と。昨日の夜同居人とした遊びは楽しかった。それぞれの詩性を当てあう。そんな遊び。

「ナイフ」という文章が、やけに刺さった。普段ならそんなことはないのだろうけど、昨日書いた文章の余韻が私にはあり、ぼうっとしているからその影響がさらに強く、私はなんだか「ここで読むのをやめてもいいな。」と思った。別に二項対立の作り方を解説しなければならないからではない。いや、切り込みを入れること自体はそこに由来しないが、その切り込みを中断に、仕向けたのはそれなのかもしれない。

結局少し進んだ。そこでなんとなく、この江國香織という人は、凄い。と当たり前のことを、「エッセイ集なのにどのエッセイも覚えている。タイトルさえ見れば。」という具体性を伴って感じた。この具体性は結構、素晴らしいものだ。「傷」という文章が刺さった。一つひねることができるとも思う。哲学的な議論も思い浮かんだ。ただしかし、私はなんとなくそれらを退けて、ただぼおっとしている。この「ぼおっとしている」も「ぼうっとしている」ではない、そんな必然性があるにはある。しかしそれは偶然性であると言えばそうで、しかしこの展開自体も必然的であると言えばそうであり、そうではないと言えばそうではない。

さて、しゅぱっと二項対立の作り方を解説して起きよう。私の悪い癖だ。友人との予定の前に結構ちゃんと本を読んだり考えたり、何か感じたり何かになったり、そういうことをしてしまう。そうならないようにしよう。今日は。解除に時間を使うのはもったいない。友人と会える時間もどんどん少なくなってきているのだから。

二項対立に必要なのは二項と対立である。当たり前だが。今回は「二項」はとりあえず置いておこう。「二項」はそもそもどうやって生まれるのかとか、「二項」の存在の仕方にはどのようなものがあるのかとか、そんなことは置いておこう。「対立」は「対比」とXによって生まれる。そして「対比」は「共起」とXによって生まれる。私はこのXを何と呼ぶか決めかねているのだが、とりあえず「関係規定」と堅苦しく呼ぼう。当初は「対立」が「対比」と対立点によって、「対比」が「共起」と対比点によって生まれるという何も言ってないようなことで呼ぼうとしていた。

「対立」、例えば、別になんでもいいがたまたま思いついたのが「男と女」だったのでそれにしよう。「男と女」という対立を記号的に表すとすれば「男/女」となるだろう。スラッシュが「対立」の記号である。「男/女」が成り立つためには「男と女」がそもそも「対比」になっていなくてはならない。その「対比」の状態を「男-女」と表そう。ハイフンが「対比」の記号である。「男-女」が成り立つためには「男と女」がそもそも「共起」していなくてはならない。「共起」という用語が好きなのでこれを使いたいが、ここでの話にとっては分かりにくいと思うので「集合」と呼ぼう。「男と女」が近くになければそもそも「対比」は成立さえしない。この近くにあることを示す記号としてナカグロを使おう。つまり、この状態においては「男と女」が「男・女」になるわけである。

ここまでの展開で察しの良い人なら気がついているかもしれないが、二項対立、上の例で言えば「男/女」は「男-女」が成り立った後に可能になり、「男-女」は「男・女」が成り立った後に可能になるのだから、二項対立を作りたかったら「男-女」を、さらには「男・女」を作っていなくてはならない。もちろん、この作ることの全体をどう考えるかは難問であり、それがわからないと話がそもそもわからないかもしれないが、こういう構造があるとは言える。

もちろん、「男と女」を「男/女」と「男-女」と「男・女」にするとき、二つの「と」のうち、おそらくどちらかはわかりにくいと思う。これが上で触れた難問性を生み出しているのかもしれない。さらに言えば、ある「対立」をそれとして、強調して言うなら「対比」ではなく「対立」として理解するためには他の「対比」がそこに重ね合わせられていなければならない。この重ね合わせの形態にも色々あると思うが、とにかくそうしないと理解することができない。もちろん、理解しなくてはいけないということはないが、どちらにせよ理解するならそうするしかない。私たちは「対比」の重ね合わせにおいて様々なものに重ね合わせることがどれくらいできるかによって「対比」の格を決めているようなところがあるからすごく混乱することはないのだが、その「対比」の格において最上級にあるようなもの、例えば真善美(「真」は「真と偽」、「善」は「善と悪」、「美」は「美と醜」)などもそれぞれ重ね合わせられ、結局どれを最上格にするかは決められないし、結局それは「対比」の次元でしかないからそこにどういうふうに他の最上格ではない「対比」が関係してくるかによってしかそのそれぞれの重ね合わせの形態は見えてこない。しかも厄介なことに、「対比」は「0と1」ではない。いや、これはある種の哲学的立場の問題なのだが、いくら「二項」を「一項とその他項」に変えようとも、そしてその共依存(たいていは「一項」が「他項」に依存していると言われるが、それは逆もまた然りであることは「対立」や「対比」が「二項」の関係であるのだから必然的である。ここに「集合」が入ってこないのはそれがそもそも「一と多」の関係にあるからだとも言えるし、そもそも「関係」が「集合」の切り出し、もしくは「集合」からの切り出しに本質的に関わっているからだとも言える。それはここで明らかにはできないが、とにかくそういうものである。)関係を指摘してもその関係していること自体は変わらない。関係を改善するのではなく関係するかしないかの次元、そしてその次元をどう解釈するかの次元でしか、少なくとも言説においては解決しない。

使われている言葉が難しいから、難しく見えるから難しい話をしていると思う人がいるかもしれないが、ここで言われていることは少なくとも私にとっては極めて単純なことである。ここまで書いてきて私は、いくつかのことを思い浮かべたが、まだ少しなずんでいる、眠たいというかぼおっとしているというか、このまま三人に会いたいというか、そんな感じなので今日はこれくらいで許してもらおう。ちなみにその思い浮かんだことの一つは以下の文章で書いたような遊びである。これを読めば一つ参照するところができるかも、しれない。

読み直していない(読み直すと起きてしまうから。ブルーブルーに陥ってしまうから。)のでもしかしたら参照するとかえってややこしくなるかもしれない。具体例とか出せばよかったな。本文で。けれども私は具体例を出すのがすごく下手で、それが私の、江國とは違うマジックの秘密なのである。ちなみに「ブルーブルー」は以下の文章で使われて以来、別に頻繁に使うわけではないが好きな表現である。

「このように、私は移動時間にぼーっと考え事をしている。それに入れ込みすぎると、私はブルーブルーになる。考え事をしたかったのに!と微かに思う。そのまま素知らぬまま粗雑に存在してしまう。してしまう。そんなこんなでブルーブルー、ブルーブルー。」(「電車と友人とヒップホップ」)

ちなみにこの文章の一つ前の「日記」には「朝、どうやったらちゃんと起きられるのかを考える。」と書いている。真逆のことだ。にこにこ。

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