哲学を哲学します
哲学に関する言葉を集めました。
といっても、思いついたまま書いただけですけれど。
哲学をしているのか、それとも哲学者であるのか。それはよく分かりませんけれど、私は哲学に触れているような気がします。そんな曖昧な哲学への愛こそが良い。私は思います。
哲学というと、考えることに重きが置かれているように思われます。確かにそれはそうなのですが、普段からそういうわけではなく、哲学をするためには意味のわからない妄想を続けて、発展させて、枝のように、空を掴むように、そんな感じで広げていかなくてはならないように思います。
「哲学って何?」ということは何度聞かれてもよく分かりません。「考えることだよ。」と言えば良いかもしれませんし、「考え方の一つだよ。」って言ってもいいかもしれません。けれど、どちらも違います。私にとって哲学とは、と始めても良いのが哲学なのです。私はそのように思います。
哲学が洞察というよくわからない人間の認識の一つを中心に構成されていることはご存知でしょうか。あなたではなく私に聞いています。「なんとなくわかるなあ。」ということと「なるほど!」ということ、これが良い塩梅で混ぜ合わさっているのが哲学なのです。じゃないと納得できないでしょう。哲学は「ふむふむ」と分かるようなものではなく、「ははーん」と分かるようなものに近く、もっと近いのは「なぁんだ」です。こんな感じです。哲学は。
日々、哲学的に生きるということ。私にはできているのでしょうか。いや、まあ、できていなくてもできていてもどっちでもいいんですよ。素敵に生きられれば。哲学が必要になったら哲学を必要とするその仕方を中心にしっかり「どん!」と据えること。これさえ忘れなかったら、まあなんでもいいんですよ。
「哲学者みたいだね。」とよく言われるのですが、私はよく分かりません。「意味のわからないことをよく言ってるもんね。」みたいな理由がつけられますけれど、私はその「よくわからない」がない方が不思議なのです。この構えこそが哲学者であるとするのなら、それはどういう意味を持つのでしょうか。意味なんてないような気がします。
哲学者は別に人生について語りません。人生で語るのです。それを超越しようということが哲学なのではなくて、超越することが哲学なのです。私はやっとプラトンの悲哀がよく分かるような気になれそうな気がしています。ややこしいですね。
哲学はややこしいのでしょうか。私にはよく分かりません。哲学がややこしいのか、それとも哲学することが「ややこしくする」ことなのか。私にはよく分かりませんが、私は「ややこしくする」ことが哲学に最も近いと思います。まあでも、これはそうやって問われているからですけれど。
私は哲学教育なんて流行らせるつもりはありません。けれど、小さい子ども、私よりも後の世代を生きるだろう子たちに「哲学ってなぁに。」と聞かれたら困ってしまうような気がします。レヴィナス先生のように「大人になったら分かるんじゃない?」なんて挑発をするような気がします。私はそこでムキになることが求められているような気がしてしまって、「ふうん。待っとくわ。」と思うのでしょう。哲学教育はそんな人を待つのだと思います。血気盛んな天邪鬼を。
さあて、哲学のなんたるかが全くわからなくなったでしょうか。それとも明らかになってきたでしょうか。私はよくわからなくなりましたけれど、わからないということがわからなくなってきました。意外とシンプルな結論がボカーンと出てくるような気もしますし、複雑怪奇な道をドカドカ、という感じではなく、スタスタスタスタ、と転がるように進んでいくような気がします。気を高く持って、夜は寝ましょう。哲学するのなら、って感じですね。
寝ましょう。夜は常におそいですから。