急に引用するというリズム

極めて抽象的な話をするが、私は最近「急に引用してそれについて特に語らずまた急に引用して……」というリズムについて考えていた。

なぜそんなことをしていたのかはわからないが、そこに極めてリズム的な何かがあることを見つけて、私はもしかすると哲学を愛しているのではなくそのリズムを愛しているのかもしれないと思ったのである。

哲学書に書かれていることはほとんどよくわからない。それは別に文学でもエッセイでも、実はおそらく同じことで、私たちは他人が書いたもの、そして自分が書いたものすらよく読めないのだ。

引用→何か書く→引用→何か書く………、基本的には文章はこういう構築になっている。「私は引用などしていない。」と言う人もいるかもしれないが、それは「引用」を極度に狭くとっているからである。著作名を書いて、頁数を書いて、その上に、もしくは右にその著作における文章がある。それを自分の文章に用いる。これが「引用」であるわけではない。私たちは他人が使った問い、世間ではこう言われているという常識、それらを「引用」して、しかも突然「引用」して、「急に引用」して、何か一言二言、何かを書いて去っていく。また「引用」が訪れ、誰かがそれに何かを書く。その「引用→何か書く」のペアはつながり、それ自体が「引用」されるようになっていく。もしくは「何か書く」に参入し、参戦し、自らを他人とは異なる存在として屹立としたものにする。

このリズムの心地よさはなんだろう。私はこの「心地よさ」を特に書くときに感じる。読むときにも感じるが、それは、とりあえず言っておくなら「謎解き」的な「心地よさ」である。では書くときの「心地よさ」とは何か。

それはおそらく、余計なことを考えなくて済む、もっと言えば仮に余計なことを考えたとしてもそれが「引用」に呼応したり応答したりすることに使えることだろう。そこでは自らの多動、それが肯定されるのである。少なくとも肯定の回路が存在することは明確なのである。少なくとも私にとっては。

「少なくとも私にとっては。」というのは別に日和っているわけではない。他人がどうかはわからない。ただ単にそれだけのことである。

書きたいことは書いた。この一週間は「書きたいことは書いた」ら投稿するルーティーンになっているので投稿しよう。

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