私を他なるものにしたい私について

私を他なるものにしたい私について考えてみよう。

まず、私はよく、まるで既定路線かのように、「過去の私は他人」とか「未来の私は他者」とか言っている。この「他人」と「他者」をまとめてここでは「他なるもの」と呼ぼう。私はこのように考えがちであり、それを悪びれもせず、たいていはそれを規定のものとしてそこからなにを組み上げるかに専心している。それをもう少し手前から考えてみたいのである。わざわざ私を「他なるもの」にする私、を。

ただ、私は私がわざと、気を引こうとしてそうしているのではないということを知っている。もちろんそういうときがまったくないとは思わないが、たいていの場合はちゃんとそういうふうに思っている。まあ、いくらそう言ったところでこれをひっくり返せるからわざわざ文章を書いてわざわざ発表することは楽しいのだが。

まあそれはいいとして、私はこの私以外を「他なるもの」にしようとしている。その逆はなんだろうか。言い換えれば、なににしようとせずに「他なるもの」にしようとしているのだろうか。「他」と対比されるのは「自」だろうか。そうだとすると「自なるもの」ということになるが、これではよくわからない。

簡潔に言おう。私は過去の私からこの私への、この私から未来の私への、紐帯が極めて曖昧に、もしくは私がなんともできないくらい複雑に存在しているように感じられる。だから別にそれらが繋がっていると言おうと繋がっていないと言おうと、それは別になんでもいい。ご自由にどうぞ、という感じである。もちろん、繋がっていることにすることが多い場面と繋がっていないことにすることが多い場面とがある。私はそういう話をしている。

だから言い換えるとすれば、私はここで「繋がっていないことにすることが多い場面」はどのような場面なのかを問うているのである。もちろんこれは当初の問いを外しているといえばそうである。「繋がっていないことにする」にしてもいろいろ方法はあるからである。例えば「他なるもの」に似た仕方として「別なるもの」という仕方があるだろう。「他人」や「他者」に対しての「別人」や「別者」(こんな用語はあまり聞かない、というか聞いたことがないが。)が。他にも「分身」(©️千葉雅也)とか「居残り」(©️福尾匠)とか、こういう話をしている人はたくさんいるし、たくさん考える仕方がある。例えば「火星旅行」(©️永井均)や「円環モデル」(©️入不二基義)など。ただ、ここではそういうことではなく、とりあえず「繋がっていないことにすることが多い場面」はどのような場面なのかを問うている。

この問いに端的に答えるとすれば、それはおそらく「忘れている」もしくは「来歴を充分に辿れない」場面であると思われる。ただ、これらは基本的に過去方向の話であり、未来方向についてはよくわからなさの度合いが一層強い。し、おそらく議論も複雑である。今日はなんともならなさそうなのでとりあえずこの二つの場面について考えよう。

私は毎日日記を書いている。そして時折ある程度昔の、その時点において昔の日記を読むことがある。あるいは私は結構な頻度で文章を投稿している。それを時折、同じように読むことがある。そのとき、私はほとんどの場合「忘れている」。だから「他なるもの」なのだ。覚えていないのだから、しかも「覚えていない」とすら言いようがないくらい「覚えていない」こともしばしばであるから、やはり「他人」なのである。もちろん、私はそれを書いたのが「過去の私」であると思っていないわけではない。ただ、それは状況証拠的にそう思うのは不合理だからそう思っていないのであって、仮にそういう証拠がなくなったとしたら私は普通に「他人」のものとして「過去の私」が書いたものを読むと思われる。このような揺らぎはたまに「過去の私が書いた(とされる)もの」みたいな言い方で表現される。このような場合、むしろ「過去の私」を「他人」であると考えないほうが不合理なのではないか、とまでは思わないが、別に「繋がっていないことにする」のもそんなに不自然ではないだろう。

もう少しでお風呂が沸くらしい。

もう一つの方を簡単に言えば、このような記憶の問題というよりもむしろ、接続の問題で「過去の私」が「他人」になる、もしくはなっているように思われるのが「来歴を充分に辿れない」場面である。

例えば、私は友人から送られてきたネモフィラ畑の写真を見て、「ネモフィラの小さく青い地球かな」という、私のなかでも最高傑作の一つに数えられる詩を書いたのだが、こういう状況で書いたことは覚えていても、それがなぜ書けたのかがてんでわからない。もし、ネモフィラ畑の写真の前に地球の写真を見ていたなら「来歴」は「充分」に辿れているが、そういった記憶はない。だから「来歴を充分に辿れない」場面なのである。これはまだ辿れているほうで、もっと辿れない場合もある。お風呂が沸いたらしい。

冒頭の問いに戻って今回は終わろう。スピーディーにスピットすること。それが最近の課題である。眠たすぎるから。最近は。

私としては「過去の私」を「他人」にすることは少なくとも二つの場面においては普通のことであると思われる。「忘れている」場面と「来歴を充分に辿れない」場面である。このような場面においてはむしろ「繋がっていることにする」ことがそれとして浮かび上がってくるのではないか。そんなふうに思って「繋がっていないことにする」のである。おそらく。そう思うと、私は気を衒っているのではなくむしろ「繋がっている」と考えるほうが気を衒っていると言えるのではないだろうか。別にそんなことが言いたいわけではないが。

これからは「来歴を充分に辿れる」とか「忘れていない」とか、それらの関係とか、それらやそれらの関係がなにによって成立しているのかとか、そういうことを考える必要があるだろう。そのヒントは永井均や入不二基義が与えてくれている。さらに言えば、それらを考えることをより実践的なものにするヒントは千葉雅也や福尾匠が与えてくれるだろう。さて、昨日以下の文章で考えようとしていたように今日も「可能性から相対主義へはいかに移行するか」を考えることにしよう。まあ、考えない可能性も充分ある。お風呂から上がったらこの文章は推敲して投稿しよう。では。

推敲した。考えなかった。いや、なんというか、ぷかぷか浮いて考えられなかった。目は結構覚めていた。最近にしては珍しく。

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