詩的なものに対する一つの視角
仕事をしているときに思ったのだが、私はなぜ「異なる背丈の同じ花たちが揺れている」さまは「銀河で星たちが煌めいている」さまに見えるのに逆はそうならないんだろうか。形式化するとすれば、「異なる背丈の同じ花たちが揺れている⇔銀河で星たちが煌めいている」ではなく「異なる背丈の同じ花たちが揺れている→銀河で星たちが煌めいている」なのだろうか。「異なる背丈の同じ花たちが揺れている←銀河で星たちが煌めいている」はなぜないのだろうか。私はこういうことが気になった。仕事中。
そしてさっき、家に帰るときにそのように思っていたことを思い出した。道中少し考えた。逆にどうして「異なる背丈の同じ花たちが揺れている⇔銀河で星たちが煌めいている」が成り立つと思っていたのか。と。
ここからはその続きである。
いろいろなテーマは見えるのだが、とりあえず重要そうなところから確認しよう。
ここで確認したいのは「異なる背丈の同じ花たちが揺れている→銀河で星たちが煌めいている」という変換は「そう見えている」という形で行われているということである。言い換えれば、私は「異なる背丈の同じ花たちが揺れている」さまを「銀河で星たちが煌めいている」さまに似たものとして見てみようとしたわけではなく、「銀河で星たちが煌めいている」さまが見えてそれが「異なる背丈の同じ花たちが揺れている」さまによって見えていたことに驚いたのである。ポイントは自然にそう見えたということである。特に何もせずにそう見えたということである。
これは別に重要ではなかったかもしれない。考えてみてもこれが何を意味しているのかよくわからない。いや、ここでの考え事にとってどういう価値があるのかがよくわからない。ここでの考え事の主題は上に書いたようなことである。
なんというか、仕事中だったから「すごい!これ!」と思ったのだろうか。なんというか、何に惹かれていたのかわからなくなってしまった。というか、「異なる背丈の同じ花たちが揺れている」は具体的で、「銀河で星たちが煌めいている」は抽象的だから、いや、そういうふうに処理できそうだから気が乗らなくなってきたのだと思う。
いつもの私は「異なる背丈の同じ花たちが揺れている→銀河で星たちが煌めいている」という変換の跳躍性に惹かれている。そして、それにはまだ惹かれている。そうか。「異なる背丈の同じ花たちが揺れている」がなぜロイター板になっているのかがここでの問いだったのか。言い換えれば、「銀河で星たちが煌めいている」がなぜロイター板になっていないのかがここでの問いだったのか。
この問いはおそらく詩性に関する問いである。なぜ詩的なものと詩的でないものがあるのか?という問いである。
すごく断定的な思いつきなのだが、詩的ではないものが生まれたことから詩的なものは生まれるのではないだろうか。ただ、そうだとしても「詩的」という領域に踏み込むのがなぜなのかはよくわからないが。
詩的ではないものがそれとなるのは詩的なものが生まれ、跳躍が見られる、そのときなのではないだろうか。ただ結局逆があり得ないのはなぜなのかがよくわからない。具体的なものが抽象的なものの具体例として処理されてしまう、そんな感じがそこにはあるのだろうけれど………
説明になっていない。そう、説明になっていないのである。まったく。