無題

私には無理やり繋げるという力がある。なので、文章を番号をつけながら書いていって、たまに何個か前のキーワードや文体と繋げる、ということを強制的にしたら面白いかもしれない。サイコロがあってもいい。これによって異物も生まれ、それはおそらく私たちの新しい連帯を生むだろう。いい思いつきであり、「乱置」という実践の復刻という感じがして私としてはアツいのだが、もう深夜なので寝よう。これは明日以降の私に頼むことにしよう。やる気を出してくれることだろう!
2024/5/27「名盤を買わずに回す」

1.さて、明日の私です。お久しぶりです。しかし、今日は雨がとても強く、それゆえに眠たくもあり、どうにも難しい気がします。今日やるのは。なので明日にしてもらうか、雨に止んでもらうか、脳に強くなってもらうか、どれかが起こるのを待ちましょう。

2.ところで、私はまだ明日の私ですが、低気圧で頭が痛くなる、これは本当なのでしょうか。実は辻褄を合わせるためにこの因果関係を想定することが都合が良いからこの因果関係は想定されている。そういう話もしっくり来ます。

3.因果関係について言えば、因果関係というのはフィクションなのでしょうか。それともそうではないのでしょうか。健全な哲学徒(「哲学徒」って人生で初めて書いた気がします。)であれば、このように二者択一を迫られれば「その二者択一はなぜ成立するのか?」と聞くでしょう。さて、なぜ成立するのでしょうか。

4.雨の日に聞くししおどしは不思議です。なぜなら、大して速くならないからです。一定のリズムを、昨日と同じリズムを保っているからです。私は頭が痛くなり、文章もいつもよりもばらばらなのにししおどしはマイペースに同じリズムを刻みます。

5.私はマイペースな人らしいです。ししおどしみたいな人なのでしょうか。私はむしろ私を劇場的な人間だと思います。感情も体調もころころ変わる、そんな人間だと思います。それをなんとか平準化してやっと、やっとみんなと同じリズムを刻むことができるのです。それが成功している証として「マイペースな人」を捉えるとなんだか、なんだか哀しいような、嬉しいような、そんな気持ちになります。

6.眠たいのはただ単に寝不足だからかもしれません。最近、Twitter(現X)で薬を飲んで発達障害の障害性が軽くなったみたいなTweet(現Post)が多く見られる気がします。私の頭痛、感情の起伏も平準化されるのでしょうか。しかし、私は次のように書いています。いや、書きました、さっき。

A1.なんか、[これ]から何も引き出してないのに[これ]を治しちゃったらなんだかなあ、という感じ。
2024/5/28「たふたふ回す」

7.引用なのでAを付けました。これを付けるとすれば、この実践の始まりから始めるのがふさわしいのでしょうが、付けないのも付けないので興味深いと思います。

8.さて、A1についてですが、ここでの「これ」(なんで[]の括弧を使っているのかはよくわからない(さっき私が書いたのですが。)のでとりあえず便宜的に「」に直しておきます。)は症状のことです。症状とまではいかなくても日常の困ったことというか、そういうものです。例えば、私は文学を一文一文立ち止まって読んでしまうのでとても読むのが遅いです。さらに立ち止まったところで考え込んでしまって、まるでリズムを掴めません。これは困ったことです。もちろん、これを褒めてくれる人もいます。ただ、私はそうしたくてそうしているわけではありません。どうしようもなくそうしていて、それで困っているのです。

9.もちろん、このようなことは「困っている」に入らないでしょう。もっと「困っている」人がいるからです。私は自分を「発達障害」だと思ったことがありません。しかし、なんというか、たまたまそれが分かりにくい能力を持っていたからそう思っているだけだ、とも思っています。ただ、私は診断を受けていないのでこのように言うことは許されないのかもしれません。ただ、もし私が病院に行って診断を受けたとするとその診断は「困っている」に対するアンサーになるように思います。私はたしかに「困っている」のですが、それを反転させてみたいという気持ちもあります。

10.ただ、私はこれを他人に強制しませんし、他人も仕方は違えどそのようにしか活動できないと思います。というのも、エネルギーもそのどうしようもない、ときには「困っている」として現れる、それから得られるものだと思うからです。引用をします。私からではなく他人から。

B1. 平井 ベルクソンの記憶にしろ意識にしろ、時間の流れにしろ、生物の進化にしろ、やっぱり所与として、まず自然という何か知らないけど物事をしでかしてしまう多様な動きみたいなものがある。それをうまいこと引き入れてある特定の形にするとジガバチになり、別の形にするとヒトみたいなものができたりする。そうして結局最後は水路づけの働きでちゃんとしたメカニズムになるのだということを考えると、すべて作らねばという考えからかなり自由になる。「ありもの」をどう使うかの知恵比べみたいなところがあって。進化自体と結構似てくるというかね。
『ベルクソン思想の現在』239頁

11.この本は対談集なのでここでは「平井」と書かれています。平井靖史先生です。ここで言われていることは「何か知らないけど物事をしでかしてしまう多様な動き」、「自然」に対する「水路づけの働き」によって「ちゃんとしたメカニズム」ができてくるということです。これは遺伝か、環境か、とは少し違う形態へのアプローチであるように思います。また、ここでは実はAIの話をしていて、その意味では「制作」の話でもあると思います。このことに関係する引用をしましょう。

B2. 山口 私の場合は哲学的エッセイだったり哲学の学術的な文章だったりするのですが、作品をつくるときは必然性を追求すると進まなくなりますね。絶対のものなんて無理です。だからそのときに何か自分をドライブするものというか、今これがやりたいとか、今これが大事だからこれでいくとか、偶然的なものにのっていったんつくってしまう。そうすると一つできて、それは検討の対象になったり<ふまえるべき何か>になったりして、その結果、新たなものを生み出していくことにつながります。
千葉 わかります。大きな必然性の追求としてではなく、その都度、機会的につくる。機会とは偶然性です。偶然性によらなければ、ものはそもそもできません。究極の必然性を求めていくと、結局のところ世界そのものと一致するような理論を目指すことになるでしょうが、そういった仕方で一つのものが結晶することはないと思うわけです。
山口 だから何か作品をつくるときも最初から主義やイズムみたいなものがあるというのりも、たまたまの具体的な問題があってそれをきっかけにいったん作品が結晶化する。面白いことにいくつか作品をつくってあとから振り返ると、そのときは気づかなかった筋があったりします。回顧的に筋を見出すのもまたひとつの「創造的活動」なのでしょうが、自分はこういう主義を取っていたのだと気づくのは事後的であるほうが面白い。
『現代思想』(特集 哲学のつくり方 もう一つの哲学入門) 12頁

12.ここでの話は意外と違う話でした。ただ、ある形態やある作品がどうしようもないことをどうにか使うということによって成り立っていると考えることが重要だと指摘しているところは変わらないでしょう。あ、ここでの「山口」は山口尚先生、「千葉」は千葉雅也先生です。ここでの「究極の必然性を求めていくと、結局のところ世界そのものと一致するような理論を目指す」は『論理哲学論考』を指していることが私にとってはアツいのですがここでは置いておきましょう。

13.さて、ここまででなんとか話はまとまったのでここから実践に入りましょう。実践の内容を軽く確認して今日は、いや、いまは寝ましょう。ここでの実践は次の14の冒頭にランダムに数字を、1〜12の数字、A1、B1やB2という数字を-で繋ぐことから始まります。つまり、3-14となれば3と14を私は繋がなくてはならなくなるのです。その際、特に厳格なルールはないのですが、その二つの文章が共に相手を立て合うような、そんな関係を目指していきたいと思います。一応3と言われたら1や2はないものとして考えましょう。どうしても繋がっている場合は読み直す必要があるでしょうけれど。ランダム性が担保されると良いのかもしれませんが、今日はとりあえず私が適当に考えます。今日?明日?はとりあえず。だから、もしかすると30くらいでこの13が指定される可能性だってあるわけです。ただのマニュアルに過ぎないこの13が。そういう面白さがあるわけです。ここで冒頭の引用の解説、特に「乱置」について解説してもいいのですが眠たいので今日はやめておきましょう。noteで「乱置」と調べればなにかヒットするかもしれません。投稿したか忘れましたが。さて、眠りましょう。

14.寝たし、さらに言えば携帯のデータ移行もしたし、だから忘れてしまった。言葉遣いも忘れてしまったし、なんで生きているのかも忘れてしまった。

15-6.私は「平準化」を恐れているのでしょうか。それとも「平準化」されない、どうしようもないことを恐れているのでしょうか。どうしても「平準化」されない、それゆえに私を喰い尽くすかもしれない、そんなことを恐れているのでしょうか。私はみんなが恐れていないとか、恐れているにしても大して恐れていないとか、そういうことを言っているのではない。私が言っているのはただ一つ、私のこの恐れ、おそらく生への繋縛たる、それゆえに生きる意味たる恐れがある、そのことだけである。もちろん、この「恐れ」も全体から、全体性から意味を備給するのだろう。しかし、それでもなお、この「恐れ」を私は持っているのである。

16-A1.「恐れ」が困るのは「恐れ」が「引き出す」ということ自体を脅かすことである。いや、実は「引き出す」なんてことはできないのが「恐れ」となっているのかもしれない。私はだから、私はだから言い訳として「恐れ」を用いているのかもしれない。次の引用を見てみよう。

B3. [『内なる海』という映画で印象に残ったシーンのうちの:引用者]一つは、ラモンがなぜ自分は死にたいと思ってしまうのか、なぜ身体は動かせなくとも愛情に囲まれた生活で満足できないのか、なぜ生きつづけたいと思えないのかと嘆くシーンである。ラモンが取り乱す唯一のシーンである。
たぶんそこにはストーリーの核心がある。同じような生き方も、ほかの人には我慢できるかもしれない。ほかの人には意味を見いだせるかもしれない。でも自分にはできない。それは自分で変えようと思っても変えられることではない。その自分を認めなければ自分を生きたことにはならない。そうラモンは思ったのだ。
『傷を愛せるか 増補新版』34頁

17.私はおそらくこの最後の「その自分を認めなければ自分を生きたことにはならない」が言い訳に見えている。もちろんそんなことはないと思いつつ。しかし、どうしてもそう見えてしまうのである。

18.しかし、私がまだ私にパワーを感じるのはこのまどろみを他人に押し付けることができると思っているところもあるらしいところである。つまり、私は他人がまどろんでいて私が醒めていると思っているところがある。それが私にエネルギーを与えてくれるかもしれない。そんなふうに思うのである。しかし、それは最後にすがるところであり、本当はまどろむとか醒めるとか、そんなことはどうでもよく、問題なのは目の前にある、いや目の前にすらない、そんな現実である。どうしようもない、そして何も治しえない現実である。

19.6の話に戻るが、これが症状だとするのなら、障害だとするのなら、それはやはり解決しなければならないのだろう。なぜなら、みんなは私に生きていてほしいらしいからである。私は素敵に生きてきたつもりだし、みんなもある程度はそう思ってくれているらしい。それは嬉しいことだ。ここで書いてみて思ったがそれは嬉しいことだ。しかし、私はラモンにも共感するのだ。ちなみに私はこの映画を見たことがない。私はラモンの「同じような生き方も、ほかの人には我慢できるかもしれない。ほかの人には意味を見いだせるかもしれない。でも自分にはできない。それは自分で変えようと思っても変えられることではない。」に共感するのだ。私は私によって生きるという、そういう不可能なことをしようとしている。しかし実はそれしか私たちはできないのだとも思っている。「私たち」?

20-10.私はみんなにも醒めていてほしいと思っているのかもしれません。そうなったところで現状は変わらないにも関わらず。私はみんながどうしようもないことからエネルギーを得ているのかもわかりません。私はもしかすると「どうしようもないことからエネルギーを得ている」という描像にこだわっているだけなのかもしれません。しかし、そういう拘泥がないとそもそも話すらできません。別にできなくたっていいのかもしれませんが。脳内会話も少なくなるらしいですね。薬を飲めば。私はその「脳内会話」が私の状態だとはまったく思いませんが。

21.私は私の内なる声と対話する。その声は大抵「常識」の声である。「常識」という声である。私は戸惑う。私がそれを内面化していることを。しかし、私は思う。そうか、「常識」がないと私たちは話し合うことすらできないのか、と。だから私は話したくないのかもしれない。なにも。けれど内なる声は私を責め立てる。いや、何かは私を責め立てる。

22.もちろん、すべての「責め立て」は自責である。それを他責にするかどうか、それが問題である。そしておそらく私はかなり特殊な仕方で他責に至ろうとしている。「自責しかできない」という啓発が聞こえる。それはそうなのだが、それをどう解釈するか、どう行動するか、それが重要なのである。その立ち止まりがないならそれは声ではない。手である。私を動かす、手である。しかし、私に聞こえるのは声である。

23.今日は珍しく本が読みたくならない。責務のように駆り立てることすらしない。もしかすると私はもう、本を読まないかもしれない。他人が書いた本を。いや、そもそも他人が書いた本など読めるのだろうか。私は対話の相手として、しかも常識を勝手に定義する相手として彼らを呼び出している。しかし、私は彼らに呼び出されていない。肩をもたれて、「君、君!」と言われていない。私は彼らを見て、もしかすると嘲笑ってさえいるかもしれない。「変な奴らだなあ。」と。そして少しだけ変になって、変になって、ああ、という感じである。

24-8.「私には出来ないから凄い。」という褒め言葉がある。私もするのだが、しかし、そのように「褒める」ことはなんだか、なんだか非倫理的でもある気がする。その意味で言えば、「変な奴らだなあ。」と笑っている、その姿は倫理的であるかもしれない。しかし、それは嘲笑かもしれない。しかし実は奥にある規範に向けられた笑いなのかもしれない。それならもっと強くなりたいものだが。

25-13.「共に立て合う」そんな関係、私はそれを理想としてそれを追いかけている。理想と目標は何が違うのだろうか。目標の目標、メタ目標が理想なのだとしたら、目標を立てる際の指針、それが理想なのだとしたら、ああ、もう私は考えられない。バラバラになっていく。私はかけらになり、軽石のようになり、私の中に雨は通り、穴は本当に少しずつ広がり、私は月の雫を受けるために準備するのだ。

26.私の中を流れていく。それを見ている。私の顔には涙が流れ、時は流れ、私は忘れていたら生きているし、覚えていたら死んでいる。いや、死んでいたら「覚えていた」ということなのであり生きていたら「忘れていた」ということなのである。そう、これはまどろむとか醒めるとか、そういう、そういう話である。しかし、死ぬとは死体になることである。私の「体」はどうなっているのだろうか。

27.透明なトラックは私をはねる。私は転がり、私とバイクは先に進み、私はそこらに転がったまま、透明になって転がったまま、私はそれを拾うこともせず進んでいく。もし死体がこの透明体なのだとしたら、むしろ私は嬉しいかもしれない。私は死なないのだから。そして周りの人は悲しまないのだから。みんなにはわからないだろう。そんなことも言えるかもしれない。しかし、私はおそらく間違った誠実さによってその透明体を想像のものだと苦笑うのだ。

28-7.透明な規範、どれだけ探してもない。けれどそれがないとおかしい。でもない。妖怪にすらなれない、社会学にすらなれない、そういうものがある。私はそれを見る。いや、それを「ゼロ」として、「始まり」として作り立てる。私は立てる。その下をどういうこともない文章で埋めて。いや、文章が「埋まる」を可能にするのである。私はそれをなんとなく触って、なんとなく思い出して、忘れてると思って、でもなくて、でもそれらによってそれは在るのである。

私には無理やり繋げるという力がある。なので、文章を番号をつけながら書いていって、たまに何個か前のキーワードや文体と繋げる、ということを強制的にしたら面白いかもしれない。サイコロがあってもいい。これによって異物も生まれ、それはおそらく私たちの新しい連帯を生むだろう。いい思いつきであり、「乱置」という実践の復刻という感じがして私としてはアツいのだが、もう深夜なので寝よう。これは明日以降の私に頼むことにしよう。やる気を出してくれることだろう!
2024/5/27「名盤を買わずに回す」

29.この全体にとっての異物はこの文章である。私たちは輪舞しながらこれを円のように作り出す。異物は外と内にある。私たちは外と内を作る。点であり線であり、そして円であることによって。円が逆に回ったところで回っていること自体は変わらない。

30-2.因果関係が死んだとしてもメシア関係は死なない。これがあれば私は救われるのだという、そういう関係は死なない。いや、この二つの関係は、もしかするとこの二つの関係同士の関係は相反するものなのかもしれない。私は二つを重ね合わせだと思っていた。メシア関係は因果関係に何かを付け加えたものだと思っていた。しかし実は違うのかもしれない。

31.「実は」?私は信じない。「実は○○である」と言う奴を。いや、精確に言うならそのように言う奴は私を疑いに向かわせる。刺激と反応の関係のように私は疑うのだ。

B4. 激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛みの幻覚におそわれているのであって本当は痛みなんてないんだよ、と言うことこそもっとも非現実的であろう。それと同様、悲しみや喜びや怒りにも幻はありえない。幻の賞金で喜ぶことはあっても、その喜び自体は幻ではありえない。ある妄想のため怒ることはあっても、その怒りは怒りの幻覚ではない。このように人間の生きることそのものである苦痛や感情に幻がありえないのと同様に、同じく生きることの核心である「さわる」ことにも幻はありえない。手で掴んで触れ、口で触れ、胃腸で触れるものが幻だということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。
『大森荘蔵セレクション』16頁

32.「苦痛や感情」と「触る」が「幻だということはありえない」のは確かだが、その二つは本当に同じ意味での「現実」なのであろうか。もちろん同じだと大森は言うだろう。私も大してクリティカルな反論があるわけではない。しかし、「さわる」には抵抗性という卵があり、だからこそ「現実」は重む。しかし、「苦痛や感情」はむしろそのような卵を割り、バラバラになることによって「バラバラになったから現実はある」というふうに「現実」を押し付けてくる。だから違う。しかしこんなことを言っても大森は頷かないだろう。

A2. 君の中に流れるリズム、それは胎動となる。それはなにゆえか。それは「胎」ゆえである。それは卵であり、黄身である。
2024/5/20「自殺と他殺のあいだ」

B5. つまり、第三者の存在論的構造は身体として現れるのである。ここにいう身体は意志における「私はできる」、すなわち自己に固有の身体であると同時に、意志の傷つき易さ(vulnérabillité)、すなわち生理学的身体でもある。これら二つの契機を同時に有することーー、「私はできる」から物への反転が第三者の実存様態なのだ。第三者の実存は健康であるとともに病気である。具体的には、第三者の実存は苦痛をとおして明かされるのだが、内部からはこの苦痛を克服しえないがゆえに、第三者の実存は外部での治療へと方向を転じるのだ。
『レヴィナス・コレクション』(合田正人編訳) 417頁

B6. 様々な存在者や対象が何かを感じることができる"などという考え自体"、どのようにして我々に生まれるのか?
私は教育の結果、自分の中の感覚に気づき、それによってこの考えに導かれたのか、そして今その考えを自分の外の諸対象に転用しているのか? 他人の言葉の使い方と衝突することなく「痛み」と呼べる何かがここ(自分の中)にあることを、私は認識しているのか?-私は石や植物に自分の考えを転用しない。
恐ろしい痛みがあり、それが続いている間に自分が石になってしまうということは想像できないだろうか?それどころか、目を閉じたとき自分が石になってしまっていないことを、そもそも私はどのようにして知るのか?-そして、もしそのことが今起こったなら、いかなる意味で"その石"は痛みを感じるのか?いかなる意味で我々は石が痛みを感じていると言えるのだろうか?そればかりか、そもそもなぜここで痛みに持ち主が必要なのか?!
では我々はその石について、"それ"には心があり、"それ"が痛みを感じるのだと言えるか? 心や痛みが、石にどんな関係があるのだ?
人間に似たふるまいをするものについてのみ我々は、痛みを"感じる"、と言えるのだ。
というのも、[もしそうでなければ]物体について、あるいは望むとあらば、物体が"持つ"心について、そう言わなければならないからだ。そして物体がどのようにして心を"持つ"というのか?
『哲学探究』(鬼界彰夫訳)第一部二八三節

A3. もし仮に、この庭の配置の全てが遠くから聞こえる鳥の声によるものだったとしよう。もし、その鳥がいなくなり、もはや完全な静寂に等しい状態になったとしたら、その庭は何になるのだろうか。
2024/5/13「対比と類比という対比」

33.これらをまとめることはできない。それぞれは似た問題だが似ているだけである。私は君に似ているだけである。そこに流線が見えたとして、それは嘘ではないのか。本当なんて、本当なんてないのではないか。本物ということで急場を凌ぐしかないのではないか?しかし、私はそこに至ってやっと「嘘言っても真実でもいい」(OZROZAURUS『Hey Girl』)がどういうことなのかを知るのである。そしてなんだか、すべてが愛おしく思えてくるのである。もちろん身は守るのだが、私はそれを嫌うのだが、しかしそれでもなんだか愛には溢れられる気がするのである。

34.私は君に酷な要求をしているのかもしれない。しかし、私が「生きる」をそれであると思うためにはそれが必要なのだ。その命令が必要なのである。私は誰の命令も聞けない。君の命令ならやっと聞ける気がするのである。君は悩んでいるのだろう。どのようなことに悩んでいるかはわからないが悩んでいるのだろう。私は君を疑わない。しかし、「疑わない」と言うくらいには、「信じる」と言うくらいには疑っているのだ。恩を仇で返すことになっていると思うがそうなっているのだ。

35.私は君を理想化しているのだろうか。私はそうには思えない。むしろ私は暴力的ですらあるだろう。

B7. 「愛しているから、あなたが死にたいと思うのなら、それを手伝うわ」という単純な決意。愛がなんなのかはわからない。ロサは結局、ラモンのいいなりになったにすぎない、そうやってラモンに認められようとしたのだ、という理解も可能だろう。けれども、ラモンのことを大切に思うからこそ、ラモンの願いを言葉どおり信じる、それ以上の解釈は加えず、願いに従う、というある種の「判断停止」を、彼女は潔く謙虚に選んだのだ。
『傷を愛せるか 増補新版』37頁

36.君はもしかするとロサかもしれない。だから私は「死にたい」とは言わないのかもしれない。それは半分くらい本当のことであり半分くらい本当でも嘘でもないことだからである。君は本当であると信じるかもしれない。そしてもしかすると次のように考えるかもしれない。

B8. 「生きていてほしい」と家族に思われているからこそ、「死にたい」と心からいえる。「生きていてほしい」と心底思っているからこそ、「死にたい」と願うことの権力性を正面から指摘できる。
『傷を愛せるか 増補新版』35頁

37.君は「権力性を正面から指摘できる」だろうか。私はそうは思わない。これは理想化かもしれないがそうは思えない。そう言ってくれればどちらかには振り切れるかもしれないが。

38.そろそろ終わろうか。今日はもう何も書けない。いや、-で繋げてみよう。

39-A3.A3はないのではないかと心配だったがあった。内なる声が鳥の声だったら幸せだろう。幸せだろうか。庭が自然の「水路づけの働き」によるものだとするなら鳥の声がなんになるのだろうか。奥には山があり、それは「借景」と言うらしい。後楽園で見た。随分前のことになる。随分前のことに、なった。

40.異物はこの文章群において孤立している。しかし、それはまだ関係していないだけである。さらに言えば、-で繋ぐというのは「より孤立させる」ということでもある。

B9. 恋愛とは、連続できず孤立して生きていかなければならなくなった人間が、ほかの孤独な人間とのあいだに、あらたな連続感を見いだそうとする営みでしょうし、自殺はもっと直接に、死んで物質との無機的な連続をとりもどそうとする行為でしょう。
『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』 3頁

A2-B4.私は間に存在する。A2とB4のあいだに。この文章群は「群である」ことによって一つであり「群である」ことによって複数である。なんというか気持ちもなぜか上向き、それを「嘘」だとか言わなくなった。言わせなくなった。

A2. 君の中に流れるリズム、それは胎動となる。それはなにゆえか。それは「胎」ゆえである。それは卵であり、黄身である。
2024/5/20「自殺と他殺のあいだ」

B4. 激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛みの幻覚におそわれているのであって本当は痛みなんてないんだよ、と言うことこそもっとも非現実的であろう。それと同様、悲しみや喜びや怒りにも幻はありえない。幻の賞金で喜ぶことはあっても、その喜び自体は幻ではありえない。ある妄想のため怒ることはあっても、その怒りは怒りの幻覚ではない。このように人間の生きることそのものである苦痛や感情に幻がありえないのと同様に、同じく生きることの核心である「さわる」ことにも幻はありえない。手で掴んで触れ、口で触れ、胃腸で触れるものが幻だということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。
『大森荘蔵セレクション』16頁

41.「さわる」は「動き」によって「胎」「卵」「黄身」を内と外を分けるものとして屹立させる。ブロッコリーみたいな複数性、群、ぐんぐん私はゆく。私はそれを追いかける。私は誰かを私と間違えているのかもしれない。それでもいい。「追いかける」ことができることが重要なのだ。「苦痛や感情」はどこにあるのだろうか。わからない。でもとりあえずそれでいい。

B10. 少し時間をとって内観してみればわかることであるが、「心にふと浮かんでくる欲望」というのは、「私」がそれをコントロールして、「浮かばせている」わけではない。欲望はいつも、どこからか勝手にやって来て、どこかに勝手に去って行く。
『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』 54-55頁

42.ある欲望を「欲望」として掴むことはいかに可能なのか。

B11. 「バックグラウンド・ノイズ」こそが、コミュニケーションの可能性の条件であった。ただし、それは、透明なコミュニケーションにとっては不可能性の条件でもあることだろう。その「バックグラウンド・ノイズ」は「私たちの体内で捉えられ、凝縮され、広げられ、つぎに私たちの体内から解放され」る循環にある。『荘子』の表現によって言い直せば、「地らい」において風が穴という穴を鳴らすように、それらの音は単独では存在していない。音は一種の「信仰」として他の音と谺しあい、孤独ではないこと、見捨てられてはいないことを告げている。
『荘子の哲学』146-147頁

43.欲望とはおそらく、おそらく連鎖をそれとして連鎖から切り離すことによってそれであるとわかられるものなのである。A→B→C→D→EがあるとしてB→CがA→Dに囲まれること、そのことによってB→Cは欲望であると理解できるのである。これが欲望だと言っているのではない。理解されるならこうやって理解されるしかないと言っているのである。Eは孤立している。不動の動者のように。しかし、EはD→をA→Dからの→、A→B→C→Dからの→とに分けられるようにするのだ。さらに言えばそのことによってE自身も欲望の中にあると思われるようになるのだ。

B12. Q ヨーコさんは音楽の勉強もされているので、いろいろな楽器を弾かれると思うのですが、その中で特にどれが好きですか?やはりピアノやギターでしょうか?
ー宇宙のすべてのものが楽器になります。あなたも楽器です。美しい音を出してください。
『今を生きる』 49頁

44.デジタルのデータは全て飛んだ。そうなったとき私は肯定されるのだろう。アナログのデータは私にあった。私は消え去る。デジタルのデータはどうだろう。

B13. 千葉 相互にアクティブになることと、非対称的な関係を結ぶことは、一見矛盾しているように見えるけれど、きっとエロスにおいては矛盾じゃない。どちらの面も必要だと思うんですよ。
『欲望会議-性とポリコレの哲学』 17-18頁

45.分離できること。それを見極めるのは私には無理だ。君にはできることにしておくことができる。それはなぜかを考えることもいいんだけどね、とりあえずそれは置いておこうよ。

B14. 同性愛がヨコ愛で異性愛がタテ愛だ、と言いたい。前者は本質に於いては同型的で実存(存在)に於いてのみ他なるものに対する愛なので、本質的には(=本質という点においては)自己愛である(という意味で非常に純化された他者愛である)、と。
『哲学的洞察』32頁

46.君は私が思っていたよりも強い。いや、私はなぜか君を弱いと決めつけていた。いや、違うよ。私は気づいたんだ。君は強いということに。

47-25.どうしよう。文学は独立的すぎて、さらに言えば「独立してんだから繋げんなよ」が強すぎてどうにも繋げられない。私が文学を好むのはそういうことなのか。

48.網戸が春を刻み込んで、私はその刻み込まれたものを部屋に閉じ込めて、そこに浸って、私は一つの粒子になる。人間粒子。ヒト粒子。

49.タイムマシーン、いや、過去の私に私が直接話せるとしても、私はそいつを変えられない。私はこんなこと夢にも思っていない。そんなことはわかりきったことだ。しかし、他人はそうではない。し、私は新しい局面っぽくて好きだよ。

49-50.私が時をかけることはできよう。時が私をかけることはできよう。しかし、困ったことにどちらかしかできないし、それでも反対側があることはわかる。困ったことに。[「架ける」と「駆ける」]

C1-48.君の眼に見られいるとき私はこまかき水の粒子に還る
安藤美保

C2-43.いつかふたりになるためのひとりやがてひとりになるためのふたり
浅井和代

C3-40.あの夏の数かぎりなしそしてまたたった一つの表情をせよ
小野茂樹

C4-B8.赦せよと請うことなかれ赦すとはひまわりの花の枯れるさびしさ
松実啓子

C5-33.たとふれば心は君に寄りながらわらはは西へでは左様なら
紀野恵

C6-29.月に立つ君のそびらのひとつほくろ告げざれば永久にわれのみのもの
青井史

C7-21.愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき
春日井建

C8-17.春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言い訳をせず
中城ふみ子

C9-8.水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器
坂井修一

C10-3.幾億の生命の末に生まれたる二つの心そと並びけり
白蓮

空山人を見ず
但だ人語の響きを聞く
返景深林に入り
復た照らす青苔の上
王維

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