スキャニングの重要性について
スキャニングについて今日は考えようと思う。
私は勉強や学びというものがある程度得意であると自負しているが、その中でもっとも重要な過程であるスキャニングについて考えてみたい。
スキャニングというのは、その名の通りスキャンすることである。
何をスキャンしているのか、と言われるとわからないのだが、それは必要なことなのである。
例を出そう。
私は最近、ある試験を受けた。
割と倍率の高い試験であり、私も初めてと言っていいくらい本意気で「点を取る」ための勉強をした。
しかし、それをしていく中で、「点を取る」ためだけでなく「学ぶ」ために大切であろうことを見つけた。
それがスキャニングなのである。
その試験は範囲が広大で、出るところもまちまちである試験であった。
だから「学び」と繋がるところがあったのかもしれない。
私はまず、試験問題を一周し、その中で見つけた法則をできるだけ覚えようとした。
それぞれの事項を覚えようとしたのではなく、その試験を覚えようとしたのである。
もしかすると、この感覚があまりわからないかもしれない。
問題の傾向や難易度、私の到達点とできないところ、それらをすべて含めて、「私と試験」という関係性の構築にスキャニングは役立つ。
具体的にいえば、私はただひたすらに試験問題を解き続け、そこに法則性を「無理やり見出す」ということをしていたのである。
それはいわば抽象化しか行わない具体的な行為であったように思う。
そのようにスキャンされた試験は第二段階であろう「学び」ということにも役立った。
なぜなら、「私と試験」という関係性が「学び」というものを求めてくる仕方に沿って私は勉強すればよかったからである。
このようなことを書こうと思ったのは、この試験に臨む上でもっとも大事なことは何か、と考えた結果である。
しかし、それをここで書いても仕方がないので、ここで無理やり抽象化してみようと思う。
「学ぶ」ということには見本が必要になる。
これは別に創造的な学びにも共通していることである。
創造的な学び、たとえば文章を書く、とか、絵を描く、とか、よく言われるような藝術的な営みを想像してもらえればよい。(もちろんそれだけではない。書き切れないほど創造的なことはある)
彼らがしているのは、想像上の見本をくっきりさせていき、それを真似することによって新しいものを作り出すということである。
そこに二重の学びが存在している。
想像的な見本をくっきりさせる、ということ、もう一つは真似する、ということ。
学びは真似から始まる、などという何回も言われていることは後回しにするとして、もう一つの「想像的な見本をくっきりさせる」ということこそがスキャニングに関わるところなのである。
私は試験問題をひたすら解き、そこに法則を無理やり見出していくことによって、理想的な学習者、というものを私の中にはっきり存在させることに成功したのである。
これはどのような「学び」にも必要なことであり、だからこそ人物伝というものが存在するのだと思う。
私の受けた試験は別に人となりが問われるようなものではなかったので、そういうものを知る必要はなかったが、哲学者など、生き様にまで関係する「学び」の時にはそういったものは理想像をはっきりさせることにもなるだろう。
スキャニングは理想をはっきりさせるために存在しているのである。
それは「質より量」の議論や、哲学史は哲学することになるのか、ということなど、多くのことに示唆を与える。
それを一つ一つ追う気はないが、そのような営みを意図的に行うことによって、「学び」というものは豊かになっていくと、今回感じた。
そして、理想をはっきりさせる、という意識は、己の理想と私の対立を生み、その対話は新しさへの条件であるようにも思う。
私たちは既存の体系と闘ううちにそこに理想的な闘争者を作り出す。しかし、その闘争者は既存の体系を最先端で再現するものであるから、それと対峙し、対話し、闘い、乗り越えなければならないのである。
自分との対話や自己との闘争など、これを言い表すための言葉はたくさん生産されているが、その自分や自己というのがここにある自分や自己ではなく、明らかに既存の体系に作り出された理想像としての自分や自己であることを知ると、そこに余計な「強がり」が必要なくなると思うのである。
私としては思わぬところに着地したが、経験を無理やり抽象化しようとしたものであるので、ここに大きな「学び」が存在することを見つけられたと思う。
だから、パラパラと理想像を濃く、強く、ここに見据えることを求めるスキャニングを繰り返すことが自己の発見につながるのである、と言いたくなったが、それは私のあまり好みでない言説なので、また繰り返すだけである。
スキャニングと「繰り返す」ということの関連については今、正直わからないので、また書こうと思います。