書き継ぐこと・書くこと・推敲すること

髪は確かに靡いているが、それは風によって靡いているが、それは私には微かにしか知覚できない。それが知覚できているのも(/)おそらくは肌が風に撫ぜられているから。それをそれとして感じ、私と風の関わりを肌に媒介させているから。その肌を髪に変えたのが「風で髪が靡く」である。そしてそのことを隠蔽するかのように「靡く」という形態的な表現が使われ、その「靡く」が「権力者に靡く」と相互に浸透し合うことで知覚の秘密を生み出すのである。

(/)は書き継いだことの記号である。いまはじめて使ったが。

おそらく「書き継いだ」にも二つあって、一つは「なぜか中断したから」なされた書き継ぎであり、もう一つは「なぜか継続したから」なされた書き継ぎである。しかし、この二つの書き継ぎは区別できない。し、本質的な区別ではないのかもしれない。

自分の過去の文章に「書き継ぐ」パターン(冒頭の文章はそれである。)と他人の過去の文章に「書き継ぐ」パターン(例えば引用してから自分のコメント(ここでの「コメント」は感想でも批判でも批評でも含むものとして想定されている。)を書くとかはこれに入るのではないだろうか。)とがある。

どうしてわざわざ「自分の文章」や「他人の文章」と書かずに「自分の過去の文章」や「他人の過去の文章」と書いているのだろうか。これは極めて重要な問題なのだが、ここでの問題、「書き継ぐ」という問題について考えるとするならば、「書く」ことや「推敲する」こととを「書き継ぐ」から区別したいという気持ちの表れであると解釈することができるのではないだろうか。わざわざ「自分の文章」や「他人の文章」と書かずに「自分の過去の文章」や「他人の過去の文章」と書いていることを。(ちなみにこういう限定をしなくてもいいとするならば問いはたくさんありうる。いろいろ例はあるが一応関係が深そうなものを選ぶとすると、そもそも「過去の文章」じゃないとわざわざ「自分の」とか「他人の」とか、そういう区別が必要にならないのではないか?という問いがありうると思われる。また、「過去」すぎる場合、そしてさらに(署名などの)制度によって作者が特定されない場合、すべては「他人の文章」になるのではないか?という問いがありうると思われる。後者はかなりテクニカルに見えるかもしれないが、その「テクニカル」という印象はおそらく制度に馴染んでいるからだと思われ、それを外してみるとすればこの二つのありうる問いは結構近く、それらはかなりここでの議論に関係が深いと私は思う。)

そう考えると冒頭の文章は特に何の迷いもなく「書き継ぐ」ことができたので実質的には「書く」に近かったのだと思う。しかし、それを「自分の過去の文章に「書き継ぐ」パターン」であると考えるのもゆえなきことではない。なぜなら、それができるのは私に限られると思うからである。もし、私が「書き継ぐ」ことをしていなかった場合、冒頭の文章は以下のようになっていたことになる。というか、私の日記の上ではそうなっていた。「書き継ぐ」まで。

髪は確かに靡いているが、それは風によって靡いているが、それは私には微かにしか知覚できない。それが知覚できているのも

どうだろう。仮に君がここに「書き継ぐ」として、私のように「書く」ことができるだろうか。そしてそうできたとして私と同じような感慨をこの文章に抱くことができるだろうか。さらにそうできたとして私とあなたは同じだろうか。これらは問いとして成立するのだろうか。ここまでの問いがなんとなく面白そうに見えたとしたら冒頭の文章ももうほとんど理解されたと言ってもいいのではないだろうか。ちなみに私が「書き継ぐ」までの時間は約十二時間だった。

髪は確かに靡いているが、それは風によって靡いているが、それは私には微かにしか知覚できない。それが知覚できているのもおそらくは肌が風に撫ぜられているから。それをそれとして感じ、私と風の関わりを肌に媒介させているから。その肌を髪に変えたのが「風で髪が靡く」である。そしてそのことを隠蔽するかのように「靡く」という形態的な表現が使われ、その「靡く」が「権力者に靡く」と相互に浸透し合うことで知覚の秘密を生み出すのである。

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