「本を読みながら何かを書く」ことについて

本を読む。何かを書く。本を読みながら何かを書く。私としては関係がないことを書いているつもりなのだが、いや、そんなことなにも考えずに書いているつもりなのだが、なぜか関係している。ように見える。それは遠近と因果を読み違える、典型的な誤謬なのかもしれないが、やはりそこに書かれているものは読まれていたことを示していると思われるのである。

注意しなくてはならない。特に最後のあたり。「やはりそこに書かれているものは読まれていたことを示していると思われるのである。」というところ。ここでは「読む」が「読まれていたこと」に縮められている。私は批判しているわけではない。縮められていることに着目する必要があると言っているのである。「縮められている」というのはネガティブな表現に見えるかもしれないが、私はむしろそこにポジティブさをイメージしてその表現を用いている。のかもしれない。そのポジティブさというのは「際限のなさを有限化しなくてはならない」という目的におけるポジティブさである。私の頭の中には千葉雅也(特に『意味がない無意味』)や福尾匠(特に『非美学』)、さらには永井均(特に『哲学探究1』)や入不二基義(特に『現実性の問題』)がこれらの目的について考えているように見えるが、とにかくここで重要なのは「縮められている」のでなければ、「読む」ことはそもそも成り立たないということであり、そのこととその結果が「遠近と因果を読み違える」という「典型的な誤謬」であるとしても「書かれているもの」に「示されている」ということである。この「示されている」も重要なことだが、今日はそれを扱う元気はない。「やはり」と言っているように、私はどうせこのことをまた考える。

具体例が欲しいかもしれない。みなさんは。一つだけ挙げよう。

今日、私はこう書いた。

私は私を治し続けている。しかし、その治療はいつも跡づけられるわけではない。跡づけられたものが哲学なり文学なりになるのである。

これを書いたのはたしか、次の文章(のあたり)を読んでいるときだった。(引用は河合隼雄と鷲田清一の対談からの引用である。)

鷲田 テレビのニュースでもそうですよね。一つの事件が数十秒なり数分で登場するときに、どういう画面の切り取り方をするか、どういうシーンを続けるかで、全然違うものになってしまいます。どういうふうに編むかという。事例研究でも、そういうふうに、何を書いて何を書かないかとか。
河合 そうです、全部言えるはずがないんですから。
鷲田 すべて書くとなると、実際何もわかってないと同じですから。その編むということ、文学的な世界というのが、一つの構想の中で物語が展開していく。やはり作家の中では、すべてのことが必然性を持っていると思うんですが、それは科学的な位置付けではない。こうでしか描けない、表現できないという、必然性がある。文学ってゆるそうに見えるけど、実は繊密に個々の作家の中で隙間なくきちっと編まれるというか、構成されていると思うんです。でも事例研究というのは、意味が完全に一つの織物の中に凝縮されない、ある別の解釈をも許すような契機をそのままに組み込んで、そのまま出す。それが事例研究じゃないでしょうか。そうでなかったらただの論文になってしまう。事例を百パーセント解釈しきっても別なふうにも読めるというのが事例研究。
河合 だから、皆聴きに来るわけ。

『臨床とことば』(朝日文庫)80頁

もしくはこの文章(のあたり)。

鷲田 個別的ということと偶然ということが、すごく関わっている気がしますね。ヨーロッパの自由の概念は、実は必然なんですね。偶然な自由というのは恣意的、アービトラリーであって、そんなのは自由じゃないと。だからヨーロッパの道徳論では、自ずからやっていて、それが法則どおりになるというのが自由。カントなんかでも、自分がやりたいことをしていて、自ずからそれが道徳法則に合うような生きかたができたときに、いちばん人間は自由だと言って。実は自由というのは必然にのっとるというところがあるんです。日本の自由の概念というのは、行き当たりバッタリのことがあって、偶然を孕み込んで自ずからかたちをとったものが、本当の融通無碍の境地というか、自由の境地という。偶然というものを最後まで孕んだまま、しゃあないやんかとやってるうちに収まってしまうという。そういう自由の概念の違いというのをふっと思い出しました。
河合 これは大江健三郎さんとしゃべったときに言ってたんだけど、今の文学って偶然を嫌うんですね。しかし昔はそうじゃないですよね。どうしようもない偶然が多くて、ふっと気がついたらこいつ金持ちやったとか、そういう書き方多いでしょう。今そういうのは絶対喜ばれない。きちっと必然的に。変なこと起こっているようでも、必然性がある。そういうのが今の文学。でも、もし、僕がクライアントと会って、その人がよくなった話をずっと書いたら、皆偶然が多すぎると言うと思う。偶然があるから、治ってるんですよ。そんな偶然、と言われても、あったんやからしょうがない。これは真実であると。そういう点からすると今の小説は、あれは皆空想科学小説ですね。つまり、皆必然で起こるという科学的なアイディアでつくってるから、リアリティを書いてない。もしリアリティを書いたら、僕らがやったようなことで、それは途方もない偶然の結果を書くことになる。

『臨床とことば』(朝日文庫)81-82頁

さて、「(のあたり)」と言っておきながら実は連続している二つの文章を引いてきてしまいました。これ以上は引きません。ただ一つだけ言っておきたいのは、この文章までの流れもあることです。その流れのどこかで堰き止められたところがあったということです。(二つになっちゃいました。)それが「私は私を治し続けている。しかし、その治療はいつも跡づけられるわけではない。跡づけられたものが哲学なり文学なりになるのである。」であったわけです。私の観測ではもう一つ、文章は書かれていました。ここらへんで。

私は私の反問に応え続けているわけだから、やはり面白い反問をしなくてはならないのですよ。面白いことを聞かれないといけないくらいには。

ここで言われていること自体は別にそんなに新しいことではない。少なくとも私にとっては。問いと答えはペアでそのペアリングが「応える」なのであり、文章を書くというのは「反問」によってしか駆動しないのだからその「反問」がつまらないと「応える」こともつまらなくなってしまうよね。「面白いことを聞かれないといけないくらいには」。ここで言われているのはそういうことである。で、この文章のあとにこの文章の冒頭の文章が書かれたわけである。

本を読む。何かを書く。本を読みながら何かを書く。私としては関係がないことを書いているつもりなのだが、いや、そんなことなにも考えずに書いているつもりなのだが、なぜか関係している。ように見える。それは遠近と因果を読み違える、典型的な誤謬なのかもしれないが、やはりそこに書かれているものは読まれていたことを示していると思われるのである。

この流れを汲むとするならば、「何かを書く」というのは「面白いことを聞かれないといけない」の一つの実践なのである。聞きなし。私の最近のテーマはそれなのだが、その一つの実践なのである。「何かを書く」というのは。そしてこの実践性が「典型的な誤謬」であったとしても一つの「応える」にはなること自体なのである。

結構複雑な話だったが、それをまとめきる元気は私にはない。いまの私には。みなさんもこれを読んで「何かを書く」ことをしてもらいたい。いや、別にそんなことしなくてもいいが「応える」ことをしてみてほしい。そして「応える」は「問いと答えはペアでそのペアリングが「応える」なのであ」ると言われたところで言われていたことであることを引き継いで、「問いと答え」という「ペア」を作り続ける「ペアリング」をしてみてほしい。そのことがなされる、そういう安心感がここでの核心なのである。もう一度引いておこう。

私は私を治し続けている。しかし、その治療はいつも跡づけられるわけではない。跡づけられたものが哲学なり文学なりになるのである。


推敲後記

私が「私は私の反問に応え続けているわけだから、やはり面白い反問をしなくてはならないのですよ。面白いことを聞かれないといけないくらいには。」と書いたときに思い描いていた「面白いことを聞かれないといけない」というのは「問いと答え」の「ペア」の「答え」を私が担う場合の話だったと思う。しかし、本文ではそういう話ではなく、むしろ「答え」が先にあって、いや、「答え」になる何かが先にあって、それが私(たち)が「問い」を担うことによって「答え」になって、それが「面白い」か「つまらない」かは私たちに依存している、みたいな話になっている。これは勝手に変換されて、そして特に言及もされていない。もちろん、この変換は私しか知らないわけだからそれでもいいのだが、おそらくこの文章を読んだかなりの人はその変換が見えていたと思う。そこに私の根本思想、そしてそれを「治療」というメタファー、「反問」という表現(なぜ「問い」ではなく「反問」なのか?)などに見て、にやにやしている人がいたとしたら、私は嬉しい。ちなみに私は私と付き合いが長いので「にやにや」できるほどの「根本思想」はもはや見えなくなっている。だから、私はもう寝たいのでやけに示唆的に書くが、だから「跡づけられる」というのは私にとっては「縮められる」こと、つまり「有限化」でありみなさんにとっては「縮められる」前の「際限のなさ」なのである。そしてこの関係は「文学ってゆるそうに見えるけど、実は繊密に個々の作家の中で隙間なくきちっと編まれるというか、構成されていると思うんです。でも事例研究というのは、意味が完全に一つの織物の中に凝縮されない、ある別の解釈をも許すような契機をそのままに組み込んで、そのまま出す。」(『臨床とことば』(朝日文庫)80頁)という関係に似ている、いや、おそらく同じなのである。だからこそ、この文章はこのように書かれた、のかもしれない。

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