君に会いたい夜について(網戸の一つ一つ)(呼吸について(カーテン)②)

昨日次のような文章を書いた。


カーテンが引っ付き、また離れる。網戸から。呼吸みたい。この部屋は肺。

これを読み解く場合に重要なことは「引っ付き」には「また」が付いていないこと、同じことだが「離れる」には「また」が付いていることである。もちろん条件にもよると思われるが、窓を開けている場合、カーテンというのは大抵網戸に引っ付いている。それがふわっと一瞬離れたとき、私は上のような感慨を抱くのである。また、このような感慨を抱くためにはカーテンが膨れているときは離れているときとは少し違うことに気づく必要がある。大抵、風は入りすぎたり逆に入らなさすぎたりするものである。そうではないとき、つまりカーテンが膨れているときが珍しいことを考慮すると、私の上の感慨はそれでしかないような感慨であったことが理解される。

世界は吸いすぎていて、私は吐きすぎている。カーテンの傾向にこのような、少しだけ人生訓的なことを読み込むこともできるかもしれない。また、部屋を私、世界を世間として見るとすれば、私は世間に吸い上げられるところで息を吸い込み、そのことで一瞬ふわりと存在できるような、そんな存在であることも理解されるかもしれない。肺としての、そしてその膨らみとしての私。

もちろん、上で「条件にもよると思われる」と書いているように、逆である場合、つまりカーテンが「また引っ付く」場合もあるかもしれない。だからこれはもしかすると、私の人間やら世間やら、そういうものに対する解釈が強調されたものなのかもしれない。

漂白剤をかけ、キムチを切って赤く、薄く赤くなった、ピンク色になったまな板に漂白剤をかけ、その人は笑った。私はそちらを一瞥して、なおも不規則に呼吸する、しかし不規則ながら呼吸はしているカーテンを見て、そろそろお昼寝でもしようかと思っている。


こういう自己批評的な取り組みが私は好きである。そしてそれを恥ずかしげもなくできるのは私は私が作品を作ったと思っていないからである。特に詩的なものに関しては私が書いている印象はない。ほとんど。いや、まったくと言ってもいい。メタ的にはそういうことを表現しているのである。

(もっともっとメタにいくとするならば、そもそも詩的か否かについても私が決めるのだから、私は詩的なものを書いた私とそれを浴びるように受容している私という関係を作り出しているのである。そういう取り組みが好きということになる。)

ちなみに上の文章(noteでは「呼吸について(カーテン)」というタイトルにした。)はカーテンについてばかり書かれているが、網戸についても書けそうだと思った。先ほど推敲していて。

私の書いた(らしい)詩に次の詩がある。

君に会いたい夜は、網戸の一つ一つから君の塊が膨張して私の部屋を埋めるんだ。

私はこれを書いたとき、「ああ、すごいものを書いてしまった。」と思った。どう「すごい」のかはよくわからなかったしいまもよくわからないが、それでもなお「すごい」と直感したのである。その意味を考えられるかもしれない。形を捉えられるかもしれない。ただ、私はいま歯磨き中、そしてそろそろ家を出なくてはならない。今日はこれを、書けたら書こう。

バイクに乗って三十分。ここで書いたことも考えていた。ただ、それ以上に空を見ていた。親指に見えた、鰯雲の赤ちゃん。拭うのだ。チョークがカカカカとなるように、手の皺と空が接する、それをありありと示すような雲。

ここからまた三時間くらい、いやもしかしたらもっと開くだろう。なんだか一日の記録になりそうだ。当初予定していなかったがそれも良いだろう。

結構空いた。七時間くらいだろうか。ただ、ある程度は考えた。メモはしなかったが、指針は立てた。その指針というのは共通点と相違点をひとしきり挙げてみるという当たり障りのない指針である。二つとも引用しよう。

カーテンが引っ付き、また離れる。網戸から。呼吸みたい。この部屋は肺。

君に会いたい夜は、網戸の一つ一つから君の塊が膨張して私の部屋を埋めるんだ。

まず、共通しているのは「網戸」である。また、「部屋」も共通している。これくらいだろうか。相違点はこれよりも多いが、とりあえず重要なのは「カーテン」の有無だろう。他にも相違点を挙げておくとすれば、前者は時間帯の指定がないのに対して後者は「夜」という指定がある。また、「君」という人間関係を示唆する要素が含まれている。さらに言えば、「網戸」の注目の仕方に関しても後者は「網戸の一つ一つ」、おそらく区切られた一つ一つの四角を、さらにはそこを「君の塊」が通り過ぎることに注目しているのに対して、前者は重要であるにしても網戸の風を通しつつ壁となるところが条件として作用しているだけである。加えて、「部屋」の注目にしても「部屋を埋める」というある種の息苦しさ、ある種の充填が後者にはあるのに対して、前者は上での文章で示唆されているように「膨らんでいるとき」を解釈のときに必要とする場合があるとは言え、それに焦点は当てられていない。

ここまで見てみると、前者は後者よりも抽象的であることがわかる。ただ、ここまで触れていないことが一つある。それは「この部屋は肺」という、かなり直接的な比喩である。これは「呼吸」から導かれる比喩であり、その意味では「呼吸」のメタファーとしての文章と、そういうものはなく、あえてあると考えるとすれば「君に会いたい夜」というテーマに対する一連のアンサーとして「網戸の一つ一つから君の塊が膨張して私の部屋を埋めるんだ。」があることになる。これは考えてみれば、かなり異なる形なのではないだろうか。もちろん、前者を「呼吸」というテーマに対する一連のアンサーとして組み立てられたものであると言えなくはない。しかし、そう言うにはあまりにもテーマが抽象的なのである。書き方が抽象的なのである。

しかし、私は抽象的であることが悪いとか、具体的であることが良いとか、そういうことは思わない。逆もまた同じである。抽象的であることが良いとか、具体的であることが悪いとか、そういうことは思わない。し、このように丁寧に、いろいろな要素を辿ることで、「この二つの文章は似ているかもしれない。」と考えたが、予感をそれ自体としては受け止めたが、「『似ているかもしれない』だけだったね。」と思っている。この二つの文章はたしかに詩的であり、しかも「部屋」や「網戸」に着目すること、さらにはこの二つに同時に着目しているとみなせることで「似ている」ことにしてもいい。ただ、残念ながら「似ている」ことから「この二つは違う!」と嬉しそうに、そして楽しそうに考える私は見つけられなかった。一つ一つの詩はそれでしかないのであり、そこではそれぞれのこと、「網戸」や「部屋」が独特の関係を構築しているのである。もちろん、この構築をそれとして見る私たちが、なぜかすごく同じであったら「似ている」から「この二つは違う!」に移行することができるだろう。しかし、今回はそうならなかった。もしかすると七時間前に無理をしてでもそれをするべきだったのかもしれない。

ただ、あらためて二つを並べてみよう。なんというか、負け惜しみとして、諦めきれなさとして。

カーテンが引っ付き、また離れる。網戸から。呼吸みたい。この部屋は肺。

君に会いたい夜は、網戸の一つ一つから君の塊が膨張して私の部屋を埋めるんだ。

上で「具体的」に関する話をしたのでその観点から考えよう。私はどちらがより具体的かと問われたとすれば、前者であると答える。なぜかと言えば、正直なことを言うと、いろいろな記憶、もしくはそれを支えるあれこれ、例えば言語や制度、言語という制度がなければ後者の具体性が浮かび上がってこないからである。言うなれば「すごく具体的だった記憶がある」からある程度比較できるくらいにはなっているが前者は採れたての具体性であるのに対して後者は具体的であるか否かについては採算に乗りすらしないのである。正直なことを言うと。

だからおそらく今回は失策だったのだ。ただ単に同じような文章が連結させられただけだった。それは皮膚を形成することもなく、拒否反応が起こることもなく、ただ単に切り捨てられた。少しの悲しみ、少しの寂しさを残しつつ。ただそれだけだった。冷たいだろうか。たしかに冷たい。私は新しい比喩を生み出していき、その行先にはまったく興味がない。もちろんたまに取り上げることはある。ただ、このように失敗することもある。失敗を認識しないことは成功を生まない。から取り上げているわけではない。少なくとも私はそう思っている。私がそれらを取り上げるのはその詩が輝くかもしれないから、以上に私が世界をより愛せるから、それ以上ではない。作品が輝こうと輝まいとそんなことはどうでもいい。磨けば光るのではない。光っているからと言って美しいわけでも素敵であるわけでもない。ただ単にそれだけである。

言い訳じみたものを書いてしまった。元々の文章の爽やかなことよ。ただ、何度読んでも感情を動かしてくれるという意味でどちらも、少なくとも私にとっては良い詩である。

カーテンが引っ付き、また離れる。網戸から。呼吸みたい。この部屋は肺。

君に会いたい夜は、網戸の一つ一つから君の塊が膨張して私の部屋を埋めるんだ。

なんだか今日は読む気がしない。生き生きとした律動が聞こえない。だからこの冷たさは本来の私ではないのかもしれない。逆に本来の私なのかもしれないが。

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