正木ゆう子から鑑賞を学ぶ2
この文章は「正木ゆう子に鑑賞を学ぶ1」の続きである。ただ、別にそれを読んでいなくても大丈夫である。していることはタイトルに書いていることであるし、私のものにしては丁寧な文章だと思われるからである。していることを少しだけ具体的に言うとすれば、『現代秀句 新・増補版』における正木ゆう子という詩人の鑑賞から学ぶ、ということである。それ以上でもそれ以下でもない。では、はじめよう。この文章には昨日書き始められたがいくつかの理由によって書き継げなかった文章の残像が少しだけ残っているかもしれない。
この句に対する正木の鑑賞は自分の経験に引きつけて、ある一つのテーマ「自分とは不確かなものである」ということを考えていくような鑑賞である。そして、そのことの広がりとして永田の別の句を紹介して永田の奥行きについて語っている。
私にできないのは後者、永田の奥行きに言及することである。それは単純に私が俳句に明るくなく、永田の句を読んだことがないからである。ただ、私は「自分とは不確かなものである」ということについてはいくらか考えたことがある。今回はそこから正木にアプローチしてみたい。正木は次のように書く。とりあえず鑑賞のほぼ全文を引用しよう。
話が少し複雑になるが、私は掲句、「野菊道数個の我の別れ行く」を読んだとき、福尾匠という哲学者・批評家が『ひとごと』という本で書いていた「時間の居残り」という文章を思い出した。
「野菊道数個の我の別れ行く」を読んだとき私はまっすぐな道を歩いているのだと思っていた。そしてそこここの野菊、もしくはそれと関わる自然、詩歌などにとどまる、そんな「我」と「別れ行く」ことが表現されていると思った。しかし、たしかに考えてみれば、「別れ行く」のだとすれば、正木が言っているように「角で道を曲がる」という想定のほうが正しいのかもしれない。そんなふうにも思った。ただ、そうだとしても私は正木にも、そして福尾にも、共感はできないような気がしている。
私はこの句を読んで、その後だったか、その前だったか、記憶は定かではないのだが、自分が作った句を思い出した。俳句自体にしたのは最近だが、私はこのような感覚を大学生ぐらいの頃から持ち続けている。
ある交差点、十字路にバイクで入るとき、いや、入った後か、いや、どちらもだと思う。そのとき私は自分が「透明」な「トラック」に撥ねられる映像を見る。しかし私は撥ねられたことはなく、その後はどの交差点も、十字路もすいすい、何も思うことなく過ぎて目的地に着く。大抵は大学に着く。しかし、その映像はやけに鮮明であり、しかも撥ねられなかったバイクも見えているような気がしている。あそこで私は死に、あそこで私は生きている。そんな不思議な感覚がずっとある。別にそこを通らなくても大学には行けるのだがそこを通っていた。ずっと。
いろいろ混じってきてすごいややこしいが、私は一つ前の段落で書いたようなことを正木の鑑賞によって思い出した。つまり、ここには二つの曲がり角があったのである。まず、「野菊道数個の我の別れ行く」を読むときに福尾ルートと正木ルートがあって、私は一旦福尾ルートに行ったけれど正木ルートに戻り、正木ルートからまっすぐ進まずに自分ルートに行ったのである。
ただ、なんとなく正木ルートを無視できないのは正木の引いた永田の別の句、「あんぱんを落として見るや夏の土」に対する「ここには、人という観念の生き物の不確かさに対して、一個のあんぱんの存在感の思わぬ確かさに圧倒される耕衣がいる。」という鑑賞における「耕衣」に共感するところがあったからである。そしてその共感は「野菊道数個の我の別れ行く」とも響き合い始めている。
ある夜、私は散歩をしていた。そして自販機でなんだったかは忘れたが、コーヒー系の飲み物、350mlくらいの大きさの飲み物を買った。そして飲んだ。確か温かったと思う。そしてなぜか忘れたが、それをひっくり返して散歩道、コンクリートの上に逆さまに置いた。蓋を外して。そして中身が流れていくのを、それがコンクリートに弾かれるのを、ゆったり眺めた。じっくり眺めた記憶はない。ゆったり眺めた。
こんなこととも響き合う感じがしてきたのである。私はここではじめて永田耕衣と出会った。そんな気がする。もちろん、「あんぱん」と「コーヒーのペットボトル」では質が違うし、「土」と「コンクリート」でも質が違う。「あんぱん」からは中身が流れない。「土」になら染み込んだだろう。ここで私たちは別れている。
まだ読みきれない。「数個」がなぜ「数人」ではいけなかったのか。音数の関係なら簡単に処理できる。この問いは。もちろんそうだが、そうじゃないかもしれない。もしかしたら。そんなふうに思う。
ただ、今日はここから先には進めない。居残りである。が、それすら忘れられるだろう、とも思う。福尾と私はここで別れている。正木とはいつ別れたのだろうか。私にはまだ、そしてもしかしたらいつまでもわからない、のかもしれない。