猫なで声と人間の悲哀と解放
猫の「ニャー」は媚びなのか否か。私は散歩する。これについて、主としてはこれについて考えながら。
ちなみにこの問い、私にとっては極めて重要だと思われる問いは『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』(ブルーバックス)を読んでいるときにありありと存在してきた問いである。この本はヒトの「バイアス」についての本である。それは良いとして、私はこの本で「ちなみに、これまで調べられた中で、コントラフリーローディング効果が生じない唯一の動物が飼いネコです。ネコは徹底的な現実主義で、レバー押しに精を出すことはありません。」(『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』41頁)という記述を見つけたとき、猫の「ニャー」という声、猫なで声が媚びであるとは思えなくなったのである。まあ、前から媚びであると思っていたわけではないが。「コントラフリーローディング効果」というのは苦労せずに得られる餌よりも労働をして得られる餌のほうが価値が高いと解釈することによってしか理解できないような現象のことである。(回りくどい言い方をしたが、こういう「バイアス」系の話の「効果」というのは独特の用法であり、それに絡め取られないように回りくどく言った。内容自体は著者の池谷のもの。)
まあ、確認はこれくらいでいいかな。まあ、あと必要かもしれないのは、私は家で猫を飼っている(いまはその家に住んでいないので「飼っていた」が正しいかもしれない)こと、ぶりっ子に興味があること、ぶりっ子の肩を持ちがちなこと、くらいだろうか。あと、私にヒントというか、手がかりを示しておくとするならば、「媚びているか否かが問われうるのは媚びが成功/失敗する可能性を開いているからだ」ということが重要である。おそらく。
まあ、散歩が楽しくてまったく考えずに終わる可能性もある。
イヤホンを挿しながら散歩をしていると、そして曲が途切れると、ああ、耳でも呼吸ってしてるんだな、みたいなよくわからない感慨を感じるようになる。溜めと作り。
「ぶりっ子」というのは極めて面白い強調である。上では「肩を持つ」とか言ったが、その理由はその人、「ぶりっ子」と言われる人が好きだとか言うことではなく(まあ、その可能性も大いにあるが。)、みんなぶりっ子なのにも関わらず「ぶりっ子」だけが強調される媚態であることがなぜか、それこそ強調されてもいいようなことであると思ったからである。
「ぶりっ子」というのは基本的に女の人が男の人を惹きつけるために行っている行為の目的(=「男の人を惹きつける」)がバレバレであることを指すと思われる。では、ここから女とか男とかを引き剥がすとどうだろうか。
ある人がある人を惹きつけるために行なっている行為の目的(=「ある人を惹きつける」)がバレバレであることは「ぶりっ子」だろうか。
これを考える前に「ある人」が二回、見ようによっては三回も出てくるので、そのことについて考えなくてはならない。最初のある人をA、次のある人をB、目的におけるBをB'と呼ぶことにしよう。そうすると上の「ぶりっ子」の抽象化された定義は「AがBを惹きつけるために行なっている行為の目的(=「B'を惹きつける」)がバレバレである」ということになるだろう。
「ぶりっ子」はAに向けられる評価である。そしてその評価がある種の批判になっているのは「バレバレである」からである。少なくとも表面上は。もちろん、その下では媚態もしくは媚態の形態への顰みがある。
ここでBとB'の関係について考えてみよう。「ぶりっ子」というのは一つの行動に対する即時的評価ではなく多くの行動に対する包括的評価であると考えられる。言い換えれば、ある行動が「ぶりっ子」になることはなくある行動群が「ぶりっ子」になるのである。もちろん、ある行動に対して「ぶりっ子」が向けられることもある。しかしそれは「ぶりっ子」な人がすでに特定されている場合だけであり、いきなりそんなことを言ってくる人がいれば、そもそも人は「ぶりっ子」であるとか、女の人は「ぶりっ子」であるとか、そういう先んじた判断があるのである。しかし、その場合は「バレバレである」という表面性は失われる。なぜなら、「バレバレである」という判断は「バレバレでない」という判断と対比されることによってその判断であることがわかるからである。しかし、そういう先んじた判断があるのだとしたら、この対比は形成されない。だから焦点は媚態もしくは媚態の形態に向かうしかない。
長くなりそうな気がしてきたので先にある程度の結論を言っておくとするならば、BとB'の関係が媚態の形態を決定するのであり、BがB'であるという理由で選ばれていれば選ばれているほどその形態は「媚び」であると考えられる。また、「ぶりっ子」の主要な批判性である「バレバレである」というのは「BがB'であるという理由で選ばれている」ということが隠されていないことを指す表現であり、この「隠されていない」がそもそも機能しない場合「ぶりっ子」は途端に人間の真理を示すものになる。いや、むしろこのような場合「ぶりっ子」は「媚び」の一つの形態になるのであり、猫と「ぶりっ子」の結合はむしろ私たち人間の真理、悲哀となる。そこで私たちが感受するなんとも言えない悲哀は正反対のものを区別してしまうと私たちが会話すら行えないという寂しさでもあり、実はみんなそういうところに居るという気づきでもある。ただ、それらは一つの解放でもあり、そのことによって「ぶりっ子」は生きることの真理を突く存在となるのである。それを私はなんとなくわかっていて、「肩を持つ」のである。「ぶりっ子」の。
さて、私はもう満足である。あと残されているのは冒頭の問い、「猫の「ニャー」は媚びなのか否か。」に答えること、そしてこの問いがありありと存在し始めたのはなぜかを分かりやすく整理すること、この二つだけである。まあ、これが元々の課題だと言われればそうなのだが。
イヤホンを外そう。川沿いを歩こう。
ああ、一つだけ。上の話はB'に「男の人」、Bに「特定の男の人」を入れればある程度わかる。ただ、それは「ある程度」であり、そこから人間の悲哀と解放に行くとするならば、それらは捨てられなければならない梯子である。
ここからのキーワードは「労働」である。そして、ここからキーになるのは私がしていた回りくどい言い方である。
私は「コントラフリーローディング効果」について「苦労せずに得られる餌よりも労働をして得られる餌のほうが価値が高いと解釈することによってしか理解できないような現象のことである」と言った。そして「(回りくどい言い方をしたが、こういう「バイアス」系の話の「効果」というのは独特の用法であり、それに絡め取られないように回りくどく言った。内容自体は著者の池谷のもの。)」と補足した。ここで問題なのは「効果」の「独特の用法」である。
普通「現象」のことを「効果」とは言わない。しかし、少なくともこの本では「現象」のことを「効果」と言っている。それはおそらく、「起こっていること(=現象)を理解するにはこのような解釈(=「コントラフリーローディング効果」があるという解釈)しかあり得ない」と考えられているからだろう。また、別の言い方をするならば、いくつかの「現象」を「このような『現象』」とまとめるためには「コントラフリーローディング効果」が現れている「現象」であることによってまとめるしかないのである。この際、先に「似ている」ものを集めようが、先に「効果」を定義して「現象」を集めようがどちらでもいい。それらは相互に行われるのだろうし、それらは結局「まとめる」ことには変わりがないからだ。それゆえに「現象」は「効果」に短絡化される。ここで「短絡化」されているのは「まとめる」ということである。そしてその「まとめる」に「労働」のありなしが用いられているのである。
ここでの「労働」は端的に言えば「苦労して餌を得る」ことである。しかし、ここには二つの注意が必要であろう。一つは「餌を得る」ことと「何かを得る」ことの関係についてである。「餌」というのは限定された「何か」である。だから「お金を得る」とか「信用を得る」とか、そういうこととは分けて考えなくてはならない。「餌」というのはもちろん特徴的ではあるが本質的ではないのである。もう一つは「苦労して」と言われているが、実際は「レバーを押す」というだけであり、ここでの「苦労」は「レバーを押さない」ということ、言うなれば「何もしない」ということと対比されてやっと「苦労」になるようなものであるということである。だから、「苦労して餌を得る」という表現、そしてそれに「労働」という概念を当てることはミスリードにもなりうるのである。ここで対比されているのは「何かする/何もしない」ということであり、前者のほうが得られたものの価値が高く思われているように見えるということに過ぎないのである。(ここでの「見える」にもたくさん問題はあるが、疲れてきたので今回は置いておこう。「価値がある」と対比されるのは「価値がない」だけではない。「『価値がある/ない』がない」もある。)
私がここで言いたいのは「何かをして何かを得る」ことがすべて「労働」であるわけではないということである。言い換えれば、私たちの行動がすべて「労働」の枠組み、「苦労して餌を得る」という枠組みで理解できるわけではないということである。もちろんそれがよく使われる枠組みであることは間違いないだろう。しかし、そこには「何かをして」を「苦労して」に変換し、「何かを得る」を「餌を得る」に変換するようなことが起こっている。そして、この変換は行動を何もしないことと対比させ、何かを特徴的なものに限定することによって成り立っている。しかし、それはただの変換であり、その変換が正しいのではなくその変換は正しいとされているだけ、もしくはよく使われているだけなのである。
さて、「猫の「ニャー」は媚びなのか否か。」というのはどういう問いだったのだろうか。なんとなく答えが出そうだったから書いてみたが、まだ正直よくわかっていない。ただ、ポイントは「レバーを押す」ことをしなかったのがただの猫ではなく「飼い猫」だったことなのではないか、という感じはする。ここでの「飼う」は極めて比喩的な事柄である。私にはそう見えている。もう一つポイントがあるかもしれない。それは「媚び」は「労働」なのかということである。「媚び」が「労働」だとするならば、「ニャー」は「媚び」であると言って差し支えないだろう。もちろん、猫には「する/しない」ということがそもそも考えられないのだと思えば「媚び」ではないが、その場合はそもそも問いが存在しないからここでの答えとしては不適切である。「媚び」が「労働」ではないとするならば、「ニャー」は「媚び」ではないだろう。しかし、この答え方が適切なのかはよくわからないし、そもそも「媚び」が「労働」ではないという判断が極めて外在的な判断である、すなわち人間がそう思っているだけだと考えると先ほどと同じように問題はそもそも成り立っていない。猫からすれば、問題が成り立つとか成り立たないとかはどうでもいいのだが、私たち人間はそういうわけにもいかない。なぜ「そういうわけにもいかない」かについてはまた考えなくてはならない。ただ、一応人間の悲哀と解放についてはある程度は語れたと思う。
もう家に着いている。結局川沿いを歩かなかった。外は暑かった。お茶を飲もう。冷たいお茶を。洗濯物を洗濯機に入れよう。汗のついたシャツとズボンを。