レヴィナスの「逃走論」の冒頭を読んで

 ここで書くのはエマニュエル・レヴィナスの「逃走論」のⅠ(ページ数で言えば『レヴィナス・コレクション』の144ページから153ページ)の素晴らしさである。
 まず、問われそうなことに答えておこう。なぜⅠの素晴らしさしか語らないのか、という問いに答えておこう。端的に言おう。私はまだⅠしか読んでいないからである。しかし、私はここでもう、この文章全体(ちなみに全体は144ページから178ページまである。だから、Ⅰは4分の1くらいの長さである。)の素晴らしさを予感した。
 これではただの早とちりだと思われるかもしれないのでこの予感の根拠(予感に根拠などないかもしれないし、後から根拠が作られるとすら言えるかもしれないが。)を二つ、示しておこう。この二つをまとめて一つで言い表すとすれば、私は哲学に関して一定の知識があるからである。これを二つにするとすれば、私は「逃走論」がだいたいどのような文章であるかを『レヴィナス読本』の「著作解題」や『レヴィナス・コレクション』の編訳者である合田の「解説」で知っているからであり、レヴィナスの思想の背景にハイデガーが強く屹立していると知っているからである。もっと背景に遡れば、私は『全体性と無限』や『存在の彼方』について微かにではあるが知っているし、レヴィナスが「逃走論」を書く四年ほど前に「フライブルク・フッサール・現象学」で熱っぽく、合田の表現を借りればレヴィナスが「フッサールのいう「超越論的経験」とそれを超えたものとのいわば境界地帯に赴こうとしている」(『レヴィナス・コレクション』522ページ)姿を見ているからである。まだまだ背景に遡ることもできるがとりあえず、ここで留めておこう。
 とにかく、私はⅠを読んで「凄え」と思ったのである。というか、Ⅰ全体でそう思ったというよりは冒頭ですでにこの文章の凄み、そして凄すぎるがゆえのえぐみのようなものを理解していたと言ってもよい。ただ、この「理解していた」ということがここまで私を賦活するのはレヴィナスの冒頭以降の記述の綿密さ、緻密さによる。ここではできるだけ長くならないよう、それを紹介できたらと思う。
 まず、「逃走論」は次のように始まる。

存在の観念に対する伝統的哲学の反抗は、人間的自由とそれに抵触する存在という粗野な事実の不和に由来する。この反抗を生み出した確執は、人間と世界を対立させはするが、人間を人間自身と対立させることはない。主体を引き裂き、人間の内部で自我を非-自我と対峙させるような闘争を超えたところに、主体は単純なものとして存在する。こうした闘争は自我の統一性を破壊するものではなく、自我は、そのうちにあって真に人間的ならざるものすべてを一掃して自己自身との和解を約束され、自己を成就し、自閉し、自己自身に休らう。

『レヴィナス・コレクション』144ページ

 私がこれに付け加えることはまったくない。ここからするのはここに示されていることがどのように展開されたか、言い換えれば、どのように理解されたか、それをできるだけ素敵な形で示すこと。ただそれだけである。ただ、これは別にレヴィナスを祖述するということではない。私は私なりにグッときたところを提示するだけである。
 そのような提示の前に一つだけ、確認しておきたいことがある。私が素敵だと思ったのはどういうところかということである。なぜこれをあらかじめ確認するのかと言えば、それによってこれは書かれているからである。ただ単に冒頭に心打たれ、その後を必死に読んでいたばかりに何も書けず、誰とも連絡を取らず、それゆえに一種の無呼吸状態にあったことを「凄え」で済ませばよかった。ただ途中から少しずつ、レヴィナスの素敵さに気が付いたからこのように書いているわけである。だから別に上の引用にそれほど心が打たれなかったとしても安心してほしい。
 私が素敵だと思ったのはレヴィナスが「逃走」という主題を提示する仕方、その丁寧さと気配りである。レヴィナスは「逃走」という主題、もしくはレヴィナスの造語で言えば「過越」という主題をいくつかの対比を順序よく並べることで提示する。よく言われる仕方で言えば問題提起である。しかし、それはただ単にこれから解決される問題を提示するだけにとどまらない。問題の提示の仕方がそもそも転換されようともしているのである。そこで企てられているのはありていの問題に新しい答えを出すことではなく新しい問題を際立たせることなのである。その際立たせが極めて丁寧で、かつ気配りが効いている。もちろん、その丁寧さの裏にはある種の単純化が働いているとも言える。もちろんそうだ。しかし、レヴィナスはおそらくそんなこと百も承知でこれを書いている。私にはそう思われた。その勇気、それこそが、しかもそれが綿密に表現されることによるそれであることが、私の感動、「素敵だ」と言わざるをえない、ちゃんと言わざるをえないと思った理由なのである。
 どれだけでも細かく確認することはできるが、二つ、絞って確認しよう。一つは全体的な問題意識、もう一つは具体的な問題提起である。前者は別に確認しなくてもいいのだが、私との共鳴が聞こえるところでもあるので一応確認しておきたい。皆さんにレヴィナスと私の関係性を簡単に提示しておくために。
 レヴィナスは次のように書いている。

障碍と抗争することでのみ、個人のヒロイズムは可能となる。闘いは異質なものに対して挑まれるのだ。

『レヴィナス・コレクション』144ページ

 ここで「障碍」と呼ばれているのは、言い換えれば、「個人のヒロイズム」を可能にすると言われているのは「人間的自由とそれに抵触する存在という粗野な事実の不和」と言われるときの「存在という粗野な事実」のことである。ある意味でレヴィナスはこの線上に居る。しかし、ここでの言い方を引き継げば「闘い」を続けようとはしているが「異質なもの」と言われるときの「異質」を「個人のヒロイズム」ではない形で扱う仕方を求めようとしているのである。
 この文章に対して私は次のようにコメントしている。

かつて私はレヴィナスの哲学を「ヒーローの哲学」と半ば揶揄していたが、あの直観は正しかったのかもしれない。しかし、「ヒーローになるための哲学」ではなく「『ヒーローになる』に対する哲学」であったからまるで間違っていたとも言える。これが「半ば」ということである。

 これが上で述べていたことのまとめである。ただ、少しズレているのはレヴィナスはおそらく「闘い」に重点を置いていて、私はおそらく「ヒーローになる」に重点を置いているということである。簡単に言えば、私には「闘い」が欠けている。だからおそらくここから確認する「逃走」の際立たせにもある種のすれ違いがある。しかし、このすれ違いのおかげで私はレヴィナスの議論を「素敵だ」と思えるのである。だから確認しておいた。
 レヴィナスはこの「ヒロイズム」とは異なる形での「闘い」と「異質」を扱うわけだが、これが「逃走」という主題に繋がっている。まず、レヴィナスは「逃走」と「逃亡」を対比する。

それら[=「逃走という主題の変奏にすぎ」[149]ないような「逃走」:引用者]が命じる逃亡は、避難所を探すことでしかない。脱出するだけではなく、どこかへ行かなければならないのだ。逃走の欲求は逆に、その冒険の途上に見いだされるどの停止点でも、同じものでありつづける。どれほどの道を踏破しようとも、この欲求の不充足が減じるわけではないかのように。

『レヴィナス・コレクション』149ページ

 ここでは二つのことが対比の根底にはあるように思われる。それは「終着点の有無」と「不充足の減耗」である。レヴィナスはこの二つにおいて「逃亡」が「終着点」を持ち(ここでの「持つ」は想定されているか否かであり、その「持つ」と「想定されている」のある種の同一視もまた批判されているように思われるがとりあえずはこのように整理しておく。)、「不充足の減耗」がありえると考えることであると指摘していると考えられる。「逃走」はその逆であるというわけである。
 このことは例えばベルクソンを例にとって繰り返される。(ただ、この奥にはおそらくハイデガーやハイデガーが提示するニーチェ像があると思われる。)

創造的跳躍の哲学は、古典的な意味での存在の硬直性とは絶縁しつつも、存在の威信から解放されることはない。なぜなら、現実の彼方に、それは、現実を創造する活動しか認知しないからだ。現実を乗り越える真の方法の本義が、当の現実に行き着く活動と似たものたりうるかのように。

『レヴィナス・コレクション』150ページ

 ここで「存在の硬直性」と「存在の威信」が区別されている。そしてどちらも批判されている。これでより上の引用で確認したようなことが理解できるようになっている。ここでは「逃亡」の問題構築にとって「存在の硬直性」が果たす役割を「逃走」の問題構築にとっては「存在の威信」が果たしていると指摘されている。そして、ここでは「逃走」を問う仕方を「存在の威信」を問う仕方と重ね、ベルクソンの仕方を「逃走」を問うには不充分であると批判しているのである。たしかにこれは一種の反復かつベルクソンの単純化ですらあるのだろうが、それはそれとして一つの屹立を提示しようとしていることを私は強く取りたい。
 ここで言われていることは次のようにも言い換えられる。

刷新とも創造とも同一視することのできない、この逃走というカテゴリーを、まったく純粋なかたちで把握しなければならない。類を見ない主題であろう。存在から脱出するようわれわれに促すのだから。

『レヴィナス・コレクション』151ページ

 そしてこの「存在から脱出する」ということは「脱出せんとする探求であって、死への郷愁では決してない」と、「死は解決でないのと同様、出口でもない」と言われてハイデガーが言わばチラ見される(『レヴィナス・コレクション』151ページ)。このチラ見に私は(おそらく後の展開を知っているからだろうが)ゾッとするような迫力を感じる。ここで一つ、ある種の盛り上がりがあり、それを経て次のように言われる。

このような主題の基調はーー造語の使用を許していただきたいがーー、"過越"(excendance)の欲求からなる。以上に見てきたように、逃走の欲求に対して、存在は障碍のごときものとしてのみ現れるのではない。その場合には、自由な思考がその克服を課題とすることになるからだ。存在はまた、ルーチンへと導くと同時に独創の努力をも強いるような強固さとして現れるのでもない。このような一種の幽閉からこそ、脱出しなければならないのだから。

『レヴィナス・コレクション』151ページ

 これが「逃走」と「逃亡」の違いを描き出してきた結論である。ように見える。し、実際そうでもあるだろう。しかし、ここまでの議論はあくまで「終着点の有無」に関するものであり、示唆されているとはいえ「不充足の減耗」については議論されていないと言える。私はこの「不充足の減耗」の議論にレヴィナスの独自性があるように思われる。このことが「逃走」と「逃亡」の対比による問題提起の具体性自体にかかっていて、それがここでのレヴィナスの探究の意義であるように思われるのである。レヴィナスは次のように言う。

実存は、他の何ものにも準拠せずに自己を肯定するような絶対者である。それは自同性なのだ。ただし、実存におけるこのような自己自身への係わりのうちに、人間は一種の二元性を見分ける。自己自身と実存との同一性は、論理的ないし同語反復的な形態を喪失する。これから示すように、それはある劇的な形態をまとうのだ。自我の自同性において、存在の同一性は繋縛というその本性をあらわにする。なぜなら、自我の自同性のなかで、それは自足せる安逸のかたちをまとって現れ、逃走へと誘うからだ。このように、逃走は自己自身から脱出せんとする欲求である。言い換えるなら、"もっとも根底的でもっとも仮借なき繋縛、自我が自己自身であるという事実を断とうとする欲求"なのである。

『レヴィナス・コレクション』151ページ

 私はなんとなく、この「もっとも根底的でもっとも仮借なき繋縛」である「自我が自己自身であるという事実」が「吐き気」や「不眠」の分析によって示されるということを知っている。Ⅰでは書かれていないが。しかし、その分析に思いを馳せるまでもなく私はこの事実を知っていると思っている。それは例えばデカルトの「連続創造説」にある種の共感を覚え、ウィトゲンシュタインのある種のそっけなさに真摯さを感じるような、そんな「知っている」である。この議論を広げるとややこしくなってしまうのだが、ここに、合田の言い方を借りれば「孤独の哲学者」(『レヴィナス・コレクション』525ページ)、岡戸の言い方を借りれば「独我論者」(『傷の哲学、レヴィナス』78ページ)としてのレヴィナスの力強さを感じる。私などはレヴィナスに比べればだいぶヘタレであるからこのような問題の仕立てはしないのだが、レヴィナスはある意味ヒューマニズムを踏み抜いたような、そしてその奥に底知れぬ不安があるような、そんな仕立てをするのである。私は私としては珍しくレヴィナスの仕立ての根拠が経験から実感されるのだが、とにかくここに私とレヴィナスの対比は際立っている。し、おそらく他の哲学者たちともそうであるように思われる。寡聞ゆえかもしれないが。
 話が長くなってしまって申し訳ないが、最後にもう一つだけレヴィナスの記述を読んでおこう。

逃走は存在そのもの、「自己自身」から逃れるのであって、存在に課せられた制約から逃れるのではない。逃走において自我は、自分がそうではなく、また、決してそうならないだろうもの、すなわち無限と対立するものとして、自己から逃れるのではなく、自分がそうであり、そうなるであろうものそれ自体と対立するものとして、自己から逃れる。逃走の関心は有限と無限との区別を超えたものであって、ちなみに、有限と無限という観念は、存在という事実そのものには適用不能で、存在の力能と諸特性にのみ適用されうる。逃走する自我は己が実存というあからさまな事態しか見ておらず、この実存が無限という問いを提起することはない。

『レヴィナス・コレクション』152ページ

 ここではおそらく、明言されてはいないがハイデガーの「死への先駆」が「可能性」に依拠して構築されていたことへの批判がある。ハイデガーもある意味「事実」を直視するような哲学を志向していたのだろうから、ここでレヴィナスはちゃんと決別しようとしているのである。まあこれもこの議論の行く末をある程度知っているがゆえかもしれない。ただ私はそのような行く末の前段階としてここでの議論に惹かれたのではなく、そのような読みを知りつつもここにしかない、力強いレヴィナスの、なんと言えばよいか、スタイリング(スタイルを提示すること/問題を仕立てること)を見る。それは非常にスタイリッシュに見えるし、非常に無骨にも見える。このように愛を紡ぐ、ちゃんと紡ごうとしてもう、寝る時間に入ってしまった。それゆえにⅡ以降は明日以降に読まれることになった。ここからはおそらく、私は圧倒されるだけだろうと思う。呼吸を止めて、レヴィナスという地域の大気に制圧されるだけだと思う。表現者としても理解者としても。そういう予感がする。しかしそれは素敵なことである。そして私はなんとなく、いつの日か私が受けた啓示、次のような啓示がより豊かになる可能性を感じるのである。

偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる。

 私はこれを啓示だと思っている。突然思いついたことだからということもあるがそれ以上にここに「倫理」の具体性が凝集すると思っているからである。ここでこれを再び唱えることはレヴィナスが「可能性」を「倫理」に据えることをここでちゃんと批判しようとしているという、そういう刺激的な対峙が予感されるからである。あらかじめ言祝ぐことはレヴィナスの本質的なスタイリングであるように思う。ただそれは呪詛にもなりうる。しかし、レヴィナスのスタイリングの本質は呪詛と言祝ぎの表裏性を「闘い」にもたらそうとするその「勇気」にあるのだろう。私はどうしてもそういう「勇気」がない。それゆえにおそらくある種の防衛機制を働かせるだろう。それを私はあらかじめ批判しない。それはそれでいいからちゃんと「思考」しろと思う。
 ここで私は合田が『レヴィナス・コレクション』の「解説」で書いていたレヴィナスの二面性を反復しているだけかもしれない。ただ、ここではその一面だけ確認しておこう。なぜなら、それが私を賦活するから、そしてもう一面は上で述べたようなヘタレ性に由来する議論だからである。合田は次のように述べる。

外部を外部として認知しながら、それを迎え入れる「歓待性」(ホスピタリティー)を可能ならしめる奇跡、それこそが「思考」であるというレヴィナスの認識には、深く考えさせられるものがある。

『レヴィナス・コレクション』532ページ

 レヴィナスの「逃走」に関する議論はその見た目に反してここで言う「思考」を護り抜こうとする、そういうものなのかもしれない。「思考」を持続させる、そういう賦活なのかもしれない。私は極めてイメージに頼った形によってではあるがこのことを示したことがある気がする。終われなくなりそうなのでそれを引用してとりあえず終わろう。明日は忙しそうだからまた明後日読もう。「逃走論」を。ここから引く私の詩は「逃走」の反対勢力かもしれないし、実は「逃亡」の新しいイメージであるという意味で同じ勢力なのかもしれない。そういう揺らぎがおそらくレヴィナスにもある。

もてりもてりと垂れてくる月の蜜。私はそれが染み込めるように、小さな穴だらけの、モノになる。私の中をその黄金が綿密に流れていった後、少し残ったその、それ、で、私は何日か、何年か、何生かは「集める」ことで生きてゆく豊かさを信じていられるのである。


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