眠たくない時にやろう
どうしても逃げられない。
私の頭の中、耳から入って、私の世界に鳴り響くHIPHOPは言う。私はHIPHOPが好きだが、別にそのことを書く気はない。
アポリア的構造。私はそれをそれとして保持するしかないと考えること、つまり、アポリアを保持するアポリアを保持する……という構造を描き出すことに快楽を感じる。少しややこしいかもしれない。例えば、「希望」にアポリア的構造があると議論している人がいる。いた。いや、まだちゃんと読んでいないので、明日読むので、迂闊なことは語れないが、アブストラクトに書かれている文章を引用しよう。
希望の対象の実現が確信となればそれは期待と変わらなくなり、もはや希望ではなくなってしまう。つまり希望は、それがかなえられないという不可能性を自らの内に含んでいるという意味で、アポリア的構造を持つのである。
「希望のアポリア的構造をめぐって」
さて、この文章を紙から、私は紙に印刷して論文を読むので紙から、引用してきて、歯磨きをしてしまった。
こんなことを書いている暇があったら論文を読め、と言われるかもしれないが、と書いたが、そんなことを言う人はいないだろう。いたとしたら、もし、いたとしたら、余計なお世話だし、このように書くことによって得られるもの、そして眠さ、その他もろもろと相談してこれを書いているのだから、知らない人に何かを言われる筋合いはない。筋合いはないだけで言ってもいいが。
はあ、つまらないことを考えてしまった。さて、ここで示したいのは、この論文の内容ではなくて、私の根本的な態度である。いや、癖と言ってもいい。ただ、私は私自身をこれによって知る、いや、知ることにしている。そのことを明らかにしようと思うのである。
さて、なぜかわからないが、珍しく冒頭をさっき、なぜか読み直したので、冒頭というのは引用の前である。そこを読み直したので、私はあることに気がついた。わかりにくいことを承知の上で引用しよう。
アポリア的構造。私はそれをそれとして保持するしかないと考えること、つまり、アポリアを保持するアポリアを保持する……という構造を描き出すことに快楽を感じる。
この文章の読みにくいさというか、わかりにくさは何にあるか。それは「つまり」である。ここでは議論がひとつ上に行っているのに、それが明確にされていない。「快楽を感じる」のは「
あれ、そうか。そもそも構造なのだから。いや、なんというか、目論みが甘かった。私は結構、筋の通った文章を書いているかもしれない。
ああ、なるほど。そうか。「アポリアを保持するアポリアを保持する……」が難しいのだ。難しく言おうとしてしまっているのだ。言い換えれば、「アポリアを保持する」ことはまた別の「アポリアを保持する」ことによって支えられる必要がないのである。
いや、待てよ。議論自体がこういう構造を持ってしまうことはあり得ることだし、おそらくそういう構造は現にある。
うーん、思わぬ緊密さに出会ってしまった。困った。まあ、決まったのは、明日、「希望のアポリア的構造」という論文を読むということだけである。
あと、これは誰にもわからない。いや、おそらく明日の私にしかわからない注意書きなのだが、それぞれの土俵に乗ってみて、そこでその土俵を準備した人と土俵に登った人の違いを描き出せばいいよ。無理やり自分の土俵に連れ込まなくてもいいよ。
推敲してみて気がついたのだが、ということを書こうとしたのだが、ああ、思い出した。ただ、眠すぎて書く気が起きない。もう、寝てしまいそうだ。実は「汝自身を知れ」に対する一つの解釈がこの文章のどこかで示されていると私は思った。寝る。