接続語と哲学もしくは考え事
ジジジジジジジ。
名前も知らぬ虫の声が聞こえる部屋の中、扇風機が回る部屋の中、私はこの文章を書いている。
人生に生きる意味はない。
このような言説があふれている。ような気がする。溢れているように見えるのはそれを見ようとしているからなのかもしれない。
人生に生きる意味はない。
このような文章の後ろにはどのような接続語が使われるのだろうか。
たとえば、
人生に生きる意味はない。だけれど、それを作ることに意味はある。
とか、
人生に生きる意味はない。ただし君の人生には価値がある。
とか。
ある程度接続語で文章の雰囲気は決まる。ような気がする。だが、別に二つの文章を入れ替えても意味は通じるし、特に変だとも思われないので、そんなことはないのかもしれない。
最近の私の考え事の中で特徴的だと思われる接続語がある。それは「だからといって」という接続語である。おそらくこのスタイルというか、接続語というか、は、古田徹也の文章から学んだものであると思われる。古田はこのような表現がおそらく好みなのだと思う。私は古田の文章が好きだ。なんというか、鮮烈、という感じではなく、綿密、という感じでもなく、なんというか、優しい。古田は「優しい文章ですね」と言われたら「易しい文章ですね」と言われたと思うだろうか。いや、きっと古田は「やさしい、というのは?」と聞いてくれるだろう。と、私は思っている。
人生に意味はない。だからといって、それがなんだと言うのだろう。
「だからといって」というのは中庸への帰還である。人間、問い始めると答えを探したくなるものである。たとえば、過去は実在するのか、と問い始めると、実在するものだ、とか、実在せず作られるものだ、とか、答えを探したくなる。けれど、問いたいことを問い、それに対する満足のいく応答が一応できたなら、別にそれを答えとして提示する必要はない。答えというのは、なんというか、他人的である。他人は答えを言えるが、私は答えを言えない。ただ応答して、未来の私がそれに名前をつけたり、愛をくれたりするおかげでそれが答えになるのであって、普段できるのは応答だけである。なぜか聞き取ってしまった問いに応答する。そのことを繰り返してやっと自分が「だからといって」とアナロジーを節制したこと、そしてそのことによってそのこと自体の価値を明らかにしたことに気がつけるのである。
少し前に「そもそも」という接続語の鮮烈さ、そしておおらかさについて書いた。今日は「だからといって」という接続語の何か、優しさのようなものについて書いた。哲学というのは接続語に依存するような気もする。そういう、なんとなくの気づき。別に気づかなくてもいいが、この接続語への視点があると、自分がいまどのようなスタイルで哲学、いや、考え事をしているのかがわかるようになるような気がする。なんとなく。
ちなみに最も美しいのは、
人生には生きる意味はない。
という言葉である。これはほぼ沈黙である。
そして同じように
人生には生きる意味がある。
という言葉もほぼ沈黙である。何かを言っているわけではない。
だからといって、文章を書いたり、言葉を集めたり、思考を先鋭化させたり、活動を活性化させたりすることに意味がないわけではない。ただ、それらが何かを言っているのはそれを聞く誰かがいるときだけである。それだけである。ただ、それだけである。