野暮だとか、つまらないとか(レヴィナスの「奇跡」)

私の二つの恐れ。「野暮だ」と私に思われること、「つまらない」と私に思われること。

「つまらない」の反対は「面白い」である。では、「野暮だ」の反対は何か?私の語法で言えばおそらく、「元も子もない」である。

より私に固有なのは「野暮だ/元も子もない」であろう。

野暮であることはつまらない。元も子もないことは面白い。いや、面白い野暮なことが元も子もないことなのである。面白くない、つまりつまらない元も子もないことは野暮なことなのかもしれない。このように考えると「野暮なこと⇔元も子もないこと」の「野暮なこと」から「元も子もないこと」に動くことが「面白い」であり、逆に動くことが「つまらない」であると考えられる。

このように考えると、「野暮だ/元も子もない」はある種の宣言でありある種の自閉であると考えられる。自己というマジックワードを使うとすれば、「野暮だ」は自己に内在することで自閉するのに対して「元も子もない」は自己が内在することで自閉するのである。

後者が難しいかもしれない。ある衝撃を拒否するか、それを一つの実践の場とするか、その違いである。ある衝撃を一つの実践の場とするのが後者である。

ここでいきなりだが、レヴィナスから引用させてもらおう。

外部が自我に呈示されうるためには、外部がまさに"外部"として生体の意識の「境界」をはみ出すだけでは足りない。同時に、かかる外部の"現存"が意識を死に至らしめないこともまた必要なのだ。全体的システムを同化することのできない局所的システムに、このように全体的システムが浸透すること──、これが奇跡である。思考を可能にするのは、このような奇跡についての意識であり驚きである。

『レヴィナス・コレクション』(合田正人編訳)391頁

ここでの「奇跡」というのはここまでの語法で言い換えるなら、衝撃を受けてそれを「つまらない」と「外部がまさに"外部"として生体の意識の「境界」をはみ出す」ことを拒否することを、「野暮だ」と「かかる外部の"現存"が意識を死に至らしめない」ことを拒否すること、それらをしないことによって「奇跡」はそれとなり、それが「思考」を可能にさせるとレヴィナスは言っているのである。

このことを強調してそれを踏まえるとすれば、「面白い」というのは「外部がまさに"外部"として生体の意識の「境界」をはみ出す」ことを容認することであり「元も子もない」というのは「かかる外部の"現存"が意識を死に至らしめない」ことを容認することである。衝撃を支配することも衝撃に支配されることも、どちらも拒否しつつ、それでもなお衝撃をそれとして受容する、そこから考え始める。私はそれをそれとして保ちたいのだ。おそらく。『レヴィナス・コレクション』を一人で編訳した合田正人は解説で上で引用した箇所について次のように言っている。

外部を外部として認知しながら、それを迎え入れる「歓待性」(ホスピタリティー)を可能ならしめる奇跡、それこそが「思考」であるというレヴィナスの認識には、深く考えさせられるものがある。

『レヴィナス・コレクション』532頁

「外部を外部として認知」することはよく説かれている。少なくとも私はそう思う。しかし、「それを迎え入れる「歓待性」(ホスピタリティー)を可能ならしめる」ことはどうだろうか。もちろん、それもよく説かれている。しかし、この二つのことのあいだで「思考」しようとすること、その難しさは説かれているだろうか。私はよく知らないが、私はこのことが重要だと思うのである。

「支配」という語法を用い続けるとすれば、「支配」をするでもされるでもなく、受け入れるでも抵抗するでもなく、いや、それらどちらでもあるように存在すること。それを「つまらない」とか言って「面白い」とか言って、利用しなかったり利用したり、そういうことではなく「存在する」こと自体を肯定する。「存在する」ことをそれとは違うことによって肯定すること、それが「野暮だ」と言われるのである。「元も子もない」はそれを批判し、そこから一つ踏み込もうとするのである。

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