五章 偶然と気分
さて、やはり前回も「うねり」と「私」とに「巻き込まれる」ことによってよくわからない文章を残してしまいました。
これは章立てして文章を書くことの難しさです。
今回出てくる「カタルシスへの奉納」ということを私は一生懸命語っていたのですが、それは今回出す章立てだったので、前回はそれを深くまで掘ってゆくことになりました。
そんなことになるくらいなら「カタルシスへの奉納」を伏線のように言葉だけ置いておけばよかったと思います。
章立てという私の自由への不自由がそのまま不自由になってしまった例です。
しかし、そのような悪い面だけでなく、とても良い面もあったと思います。
それは「カタルシスへの奉納」として私がいつもスパンと語ってしまうことの内側に蠢いている諸概念をそれとして躍動させる準備ができたことです。
書けば書くほど、自分の書きたいものというのは特に取り留めのないことに拘っているように思えます。
そして自分が好む概念や比喩はやはり「好き」ということで「癖」となり、「私」を私として統一してくれているという良い面も見ることができたと思います。
さて、別にこれは感想戦ではないので、今回はいつも以上にのびのびと書いてゆきましょう。
先に言うのも悪いのですが、今回は「カタルシスへの奉納」という戦略をどのように行うのか、ということが語られます。
もし時間があれば、これを読んだ後に昨日の「四章 読書から見える「よく生きる」の諸形態」(https://note.com/0010312310/n/n6f8cc6d6e532)を読んで頂ければ嬉しいです。
まずは「カタルシスへの奉納」ということを確認しましょう。
あ、忘れていました。「事前計画」を確認しましょう。
五章 偶然と気分
この章では,ここまでのことから「よく生きる」ということを「カタルシスへの奉納」として概念化したい。
「カタルシスへの奉納」というのは,「表現し得ないこと」「表現を待つ事柄」を「豊かさ」や「美しさ」の前に置いておくということである。
このように考えると,「カタルシス」というのは「表現を得る」ということによって「美しい」とか,「豊かだ」ということが全身でもって実感されることだということが理解できるだろう。
また、「カタルシスへの奉納」の基本的な過程を「表現し得ないの保持」、「偶然と気分の出会いと現れ」(「気分との出会い」?),「一覧による本質観取」の三つに分ける。
それぞれにおいて要となるものを見出し,それをある程度戦略化・方法化する。
この章の概要はびっくりするくらい整っています。「書く」のが億劫になってきました。
この概要の要点を取り出すとこうなります。
・「カタルシスへの奉納」という概念の確認
・「カタルシスへの奉納」の過程の確認
・「カタルシスへの奉納」の力を引き出す戦略
この三つが「美しい」や「豊かだ」という基準によって整序されているのです。
今日は楽に書けそうです。
最も重要なことに取り掛かりましょう。
「カタルシスへの奉納」です。
「カタルシス」というのは、悲劇で使われるような言葉で、簡単に言えば「日頃の鬱積を解放することで快楽を得ること」と言えるでしょう。
これはひどく感覚的な説明になるのですが、一つの短歌を引きます。
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海
俵万智
彼女の心のうちに溜まっていた「嘘をつく」という鬱憤が広く大きく柔らかでおおらかな海の、おそらく波の永遠性によって受け止められ、ひどく解放的な愉悦に浸ることができたのでしょう。
と、エピソードを交えてしまいましたが、今回の概要には私なりの「カタルシスへの奉納」への表現もあります。
「カタルシスへの奉納」というのは,「表現し得ないこと」「表現を待つ事柄」を「豊かさ」や「美しさ」の前に置いておくということである。
これはかなり美文を意識して書いているので少しわかりにくいですが、簡単に言えば「表現することのできないようなもの」を保持するということが「カタルシスへの奉納」なのです。
たとえば、ソファーで昼寝をして、起きると午後三時。テーブルの上に置かれた飲みかけのペットボトルがやけに「モノ」として主張している場面を私はずっと「表現することができない」と思っていました。このように説明的なものではなく、もっと説得的な、心に訴えるような表現はないだろうか。と私は考えていました。
この「不足感」のようなものがそれとしてしっかり保持されること、それが「カタルシスへの奉納」なのです。
そして、六章で扱う「カタルシスの奉納」はそれを表現できた時に行われるものです。
そのような「不足感」、昼寝から起きた時に感じる世界の充足感と自分の不足感、それをぴたりと表現したのは尾崎放哉でした。
昼寝起きればつかれた物のかげばかり
これを読んだ時、あの「昼寝の後のモノ感」というのが透明なウェットスーツにぴったりと張り付かれたように私の前に現れました。
それ以来、この歌を読むたびに、あの「感じ」が私の中によみがえり、跳ね、踊り、歌うのです。
これこそが「カタルシス」です。
これのために私は「奉納」するのです。
「奉納」というのはこの文脈で言えば、「不足感を覚えておく」ということなのです。
その「覚えておく」というのは別にメモしてもいいし、頭の中に入れるのでもいいし、そしてこれが大事なのですが「覚えてしまっている」ということを大事にするのでも良いのです。
この「覚えてしまっている」というのは「癖」としての私の同一性の問題に直接関係することです。
私は読書会というものをしたことがありませんが、そのような場ではきっと「同じ本」から「異なる触発」を受ける「他人」というものに出会うと思います。
私がこのような予想をするのは、私が「同じ本」を読んで「異なる触発」を受けるからです。
別に私は「再読主義者」ではありませんが、「再読」は私の同一性を素敵に突き崩すものであるから大事にしたいと思っています。
脱線しますが、「感想」というのはそのように私の同一性を素敵に突き崩すための道具としてあるのかもしれません。「同じ本」について書き続けられた「異なる触発」は豊かさそのものであると思います。そして美しさそのものだと思います。
たまに近くにあるものが「いつからあるものなのか」ということが気になることがあるでしょう。
あれもまた、そのようなものと同じものなのです。
と、話がずれ過ぎました。
どうでしょう。
「カタルシスへの奉納」、分解すれば「カタルシス」と「奉納」がわかったでしょうか。
と、いつも聞くのですが、誰も答えてくれません。「書く」というのはこれが最も逆説的で困難な作業なのです。
もし「まだわからない」という方がいたら、私のものを継続して読むか、それこそ「読み返す」ということをしてくださると嬉しいです。
「読み返す」ということと「再読」ということは異なるのです。
関係がありそうなので「書く」ことにしましょう。
「読み返す」というのはある一定の意味があると考えてなされることで、「理解していない」ということを「理解している」ということに進めるためのものです。
しかし、「再読」というのはある一定の意味を読み取ったのちに「私」の変化を純粋に知るために向けられるものです。
だから「私」として「感想」を要するか、というのが両者の違いなのです。
「カタルシスへの奉納」というのは「読み返す」的なものではなく「再読」的なものです。
というのも、「カタルシス」のためには「鬱憤」が必要なのです。たしかに「理解できない」というのは「鬱憤」かもしれませんが、それは「鬱憤」というよりも「困難」なのです。
「鬱憤」は私に帰せられるもので、「困難」はあちらに帰せられるものです。
だから「カタルシスへの奉納」は「私の表現力ではこの素晴らしい事柄を表現することができません」という「鬱憤」の「引き受け」であると言ってもいいかもしれません。
ここまでくれば「わかるかもしれない」くらいには到達したでしょうか。
聞いても答えてくれない「書き手の孤独」というのは「カタルシスの奉納」の一つの形態かもしれません。
さて、つぎにいきましょう。
次は「カタルシスへの奉納」の具体的な過程の確認です。
これも概要に私なりの表現があります。
「カタルシスへの奉納」の基本的な過程
1.「表現し得ないの保持」
2.「偶然と気分の出会いと現れ」(「気分との出会い」?)
3.「一覧による本質観取」
一応「2」は「偶然と気分の出会いと現れ」にしましょうか。
1は先ほど述べたような「私の表現力ではこの素晴らしい事柄を表現することができません」という「鬱憤」の「引き受け」と言えるでしょう。
なんでもいいのですが、「空の青さ」が「表現できない」であったり、「苔の温かさ」が「表現」できないであったり、そのようなことをしっかり「保持」することが「表現しえないの保持」です。
あと、注意なのですが、この三つの過程は3に達した時に「ああ、まあ、過程として考えるとこんな感じかな」と考えられるというだけで、初めから「こんなもんだろ」と思えているわけではありません。
そして、この1というので大切なのは多く「保持」するということです。その「多く」というのは、多くの方面、分野、時間帯、場所、など多くの端緒を「表現」へと開いていくことです。
つまり、「表現し得ない」ということを「多く」「保持」することが1では大切なのです。
次は2、「偶然と気分の出会いと現れ」です。
上の文脈で言えば「表現し得ない」が「表現される」ということが2です。
ここで大事なのはあくまで「表現される」のであって「表現する」わけではないということです。
1も2も受動的でおよそ「表現」と普段呼ばれるようなものとは程遠いような気がしますが、これが「受動性」を「引き受ける」、つまり「主体的に待つ」ということなのです。
私というものの全体を「表現」ということに貸しておくこと。そしてそこの豊穣を「表現を待つ」こととして維持するのが「表現者」なのです。
私は自分から「これを表現するぞ!」と表現したことがありません。「これをするのかあ」と驚きながら自分というものを「場」として行われるそれを丹念に「表現」として表していくことが私にとっての「表現するぞ!」ということなのです。
ここまで「触発」ということによく触れたのは、それを引き起こすのが「触発」ということだったからです。
「表現」に比べて「触発」は私が「決断」できるものなのです。
何度もも言いますが、私は「私」を貸して「表現し得ない」が「表現される」のを丹念に「表現」ということとして「作品」という形で残すことを「表現」と呼ぶのです。
だから、私にとって「表現」を磨くというのは、この「現象」の力強さをどれだけ私が維持できるか、ということにかかっているのです。
そのためにはたくさん「表現し得ない」を「保持」する必要がありますし、たくさんの「表現される」型、俗に表現方法と呼ばれるものを知ることが大切です。
「教養」なども「触発」を幅広く受けるためのものだと言っても良いでしょう。
そして3です。
「一覧による本質観取」というのは「私」を私として「美しい」と言えるような姿で、「豊かだ」と言えるような姿で統一することをしています。
それは「美しい」ということが「美しい」と言うような形で「私」を「集める」ということです。
これは「表現」というよりも私という憎き同一性をどのように素敵に解体するか、ということに関わってきます。
この「一覧による本質観取」は私ということに向けられています。それを「他人」に向ければ、小林秀雄が「書物が人間に見えるまで読むべし」と言っているような「読書論」になります。
しかし私はそのようなことを語れません。
けれど、「書物が人間に見えるまで」というのは良い基準だと思います。
3では私というものを「美しい」仕方で認識し、それに向けて「行為」していくことが求められます。
そこにはちゃんと自分が打ち立てた「美しい」ということに向かっていくという強さがあります。
「読書」ということに少しだけ戻れば、様々に「触発」された「私」を発見することで、「私」ということの素敵さ、私ということの美しさを認識することに「読書」はつながると思います。
だから大切なのは「私」の素敵さを私という美しさとして構成することではなくて「私」の素敵さを集めることなのです。それを構成するのは「美しい」ということなのです。
だから、かなりレトリカルに言えば「カタルシスへの奉納」で私たちがするのは「私」を貸すことと貸す機会を増やすことなのです。そしてそこで「美しい」が育つようにすることなのです。
そこで「現象」する「美しい」ということは「私」と「作品」との出会いにのみ拠点を持つのです。
かなり抽象的かつレトリカルな表現に彩られた今回でしたが、どうでしょうか。
これは「触発」を目指したもので「論理」を目指したものではありません。
一文でも「私」の素敵さに出会うことができるようなものがあるのなら、私はとても嬉しいです。
あ、また「快楽」を忘れていました。
最後は思いっきりレトリカルにいきましょうか。
「快楽」とは「私」を「美しい」の前に「奉納」できたことを言うのである。
どうでしょう。
この「奉納」できたということをどのように知るのか、それは「待つ」ということにおいて、です。
だから、もしかすると、この論は未来に「良い」を「完全」を廃した形で見るというメシアニズムなのかもしれません。
メシアなきメシアニズム。この問題はずっと引き継がれ、私に「私」として「現象」します。
いつか本当に「引き受ける」ことができるようになるまで「表現力」を磨くほか、私の「よく生きる」に関係のあることはないのではないでしょうか。
さて、最後の文章が最も「よくわからない」ということになってしまいました。
まとめましょう。
「カタルシスへの奉納」というのは「表現し得ない」ということを「美しい」ということの前に置いて「私」として「表現される」として「カタルシス」を与えられるのを「待つ」ということでした。
そのためには「触発される」ということが多い方が良いし、「表現される」可能性が高い方が良い。
そのために「教養」や「表現方法」ということ、そしてやはり「表現し得ない」という「不足感」が大切なのでした。
もっともっとレトリカルにいきたいのですが、今回はこれくらいにしておきましょう。
何度も読んで、「よくわかんねえよ」と毒づいて欲しいと思います。
私もきっとそうします。
ここまでの五章の中で最も「美しい」文章だとは思います。
それが「良い」のかは全くわかりませんが。
次回は一応最終回です。
最後も楽しみたいと思います。
では、また、次回。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?