ちゃんとレヴィナスがわからなくなった

間に何があるか。私と世界の間に。世界と世界の間に。「世界と世界の間」にはインビテーションがある。「私と世界」の間には………

何があるのだろうか。迷っている。私は。いつも。「装置」と言ってみたり、「回路」と言ってみたり、する。「器官」の場合もあるが、それはまだよくわかっていない。ただ、何かがあるとは思っている。なぜ?

なぜなのだろうか。透明であると信じられないのだ。「透明なのか?」と問わないことは可能かもしれないが、そのようにすら言わないことは不可能なのである。私には。

世界に薄い膜がかかっている。私に薄い膜がかかっている。世界はやけに遠く、世界はやけにそっけない。そういう経験をした。どちらも知っている。

世界に膜がかかると寂しいだけだが、私に膜がかかると悲しい。そんな感じだった。

ただ、考えてみれば、考え始めたら考え始めたこと自体は考えられないのだから「そのようにすら言わないことは不可能なのである」というのは言えないことなのかもしれない。しかし、私が考えたいのはそのあたりのことなのである。

「私と世界の間」にあるもの、そこで起こっていること、その記述。レヴィナスはそういう記述をしているのか。

デカルトに対するレヴィナスとラカン。どちらもやはり独創的だ。突き抜けている。

レヴィナスについて理解するとはどういうことなのだろうか。ラカンはまだ理解できる。もちろんラカンも突き抜けているところがあって、そこは理解というよりは体得の領域なのだと思うが。

無意識によって神を処理する場合、そこには医療的関係が媒介されている。もちろんそれは純粋なものにはなりえず、それはラカンも知っている。転移。レヴィナスには転移がない。分からず屋の患者としてのレヴィナス、お医者さん、聡明なお医者さん、ラカン。

高田さん。東京都で有名人の高田さん。

無意識を指摘されたとして、私はいかにそれを信じるのだろうか。真に無意識なのであれば、それは信じるとかではないし、誰かに指摘されるようなものですらないのではないか。このようなところから抜けないとそもそも精神分析は始まらない。恋のお話。転移のお話。

愛が仮に、デカルトにおける神のような存在なのであれば、それは極めて制度的なものである。愛が仮に、デカルトにおける無限のような観念なのであれば、それは極めて超越的なものである。

無限がそれにならないようにする。レヴィナスさんはそれ自体を批判する。今日私はやっと、レヴィナスの理解し難さが理解できた。気がする。試行錯誤がそれであることがわかるようになってきた。気がする。

私は見つけられるだろうか。私の生活形式(ウィトゲンシュタイン)を。もちろん見つけられないだろう。仮に「見つける」が言葉にできるということであるとするならば、言葉にできたと確信することであるとすれば。

これからの人生はおそらく「ああ、そういうことだったのか。」とわからなくなることの連続なのだろう。私は賢すぎたのだ。これはまっすぐな皮肉である。

レヴィナスの独我論的読解。

いいなと思ったら応援しよう!