「死人に口なし」について考えよ

お風呂から上がったら「死人に口なし」について考える。「『死人に口なし』について考えよ。制限時間はお風呂の時間と同居人がお風呂に入る時間を合わせた時間だ。推敲は明日やらせてやろう。ではスタート。」が聞こえた。

[水が私の皮膚の上を流れてゆく。滑ってゆく。思考が拡散してゆく。世界は笑い、私も笑う。]

お風呂から上がった。書かずに考えるというのは難しいことだ。そんな感じのことがわかった。書いたことを覚えておくというのは難しいことだ。そんな感じのことを思った。

さて、当たり前のことから確認しよう。そんな時間があるかはわからないが。「死人に口なし」と言われるとき、「死人」は本当に「口」がないわけではない。部位としての「口」がないわけではない。別にあってもなくてもいいが、そこで言われているのは「死人は話さない」ということである。しかし、「話さない」というのは案外難しい。

というのも、「死人」もまた何か語りかけてくるように思われるからである。これは別にオカルト的なことではなく、いや、別にオカルト的なことでもいいのだが、私たちは死者が何を思っていたのか、何を伝えていたのか、それを考えることがある。仮にそのように思わないのだとしたら、わざわざ「死人に口なし」と言う必要がない。それはあまりにも当たり前のことだから。「もしかしたら死人にも口がある=話すかもしれない」、そんなふうに思わないとわざわざ「死人に口なし」と言う理由がわからない。

さて、ここでのキーワードはおそらく「代弁」である。「死人」はもはや声を出さないのだから、音を発しすらしないのだから、「もしかしたら死人にも口がある=話すかもしれない」と思えるためには「死人」ではない誰かが「死人」の「口」にならなくてはならない。多少オカルト的なところで言えばイタコがその役割を担うだろうし、別にそんな特別なことではなくてももう死んだ人の本から何かを受け取るということはすべて「代弁」によって可能になっている。これはとても重要なことである。

一旦休憩。返さなくてはならない連絡を返す。わざわざこんなことを書いているのもここでの考え事に重要っちゃあ重要かもしれない。

ところで、私がわざわざこのようなミッション(=「『死人に口なし』について考えよ」)を受諾したのには訳がある。いや、いつもそのような展開しか私はできない。それは、過去の私も"ある程度"「口なし」ではないか、という展開である。個人というものは一人称権威(簡単に言えば自分のことについての不可謬性のこと)を時間的に引き伸ばして成立するものである。それが生から死へという長さであれば個人は人生になるし、それが大学入学から大学卒業までになれば個人は大学生活になるし、とにかくスケールに依存してそれは成り立つ。しかし、どの場合も「一人称権威を時間的に引き伸ばして成立する」ことは変わらない。しかし、私は「引き伸ばして」変わらないのか?という疑問がある。ただ、変わったとしてもわからないのではないか?言語というスケールですらないスケールのもとでは、という諦念もある。とにかく私はその辺をうろうろしていて、だからこそミッションを受諾してしまうのである。ただ、今回はそのルートに拘泥したくないのである。別に自由になりたいわけでもないが。

さて、同居人に15分くらい経ったら起こしてと言われたので起こそう。イライラせずに。

「ご飯炊いといてくれない?」と言われたので炊いてこようと思う。同居人は起きた。

さて、ご飯を炊いたので考えましょう。話を逸らしたくないので問うだけにしますが、一番無心で考えられるのはどういうときなんでしょうね。

「死人に口なし」なら誰に「口」はあるのでしょうか。もちろん器官としての「口」ではありませんよ。こうやって問うてみると、意外と器官としての「口」に依存する形で私たちが「話す」ことを展開している気がしますね。もちろん対面について考えなければそうでもないかもしれませんが、例えば小説の登場人物の「話す」は「あの人もこうやって話していたわねえ。」と何が違うのでしょうか。別に違わないと言いたいわけではありません。意外と近いんじゃないか?と思うだけです。[「同じ」と「違わない」は違います。]

遠いものを近づけ、近いものを遠ざける。哲学とはそういう営みなのです。哲学論はこれくらいにしましょう。話がすぐ逸れてしまいますね。累積力もなければ集中力もない。

「代弁する」ためには「代弁される」人がある程度特徴的でなければなりません。なぜなら、そうでないと"誰の"「代弁」をしているのかがわからなくなるからです。とりあえず「誰」の次元を何も考えずに想定しておくとすると、私たちが「死人に口なし」を真に実感するのは「誰」がわかっていながらその「代弁」は不可能だと思っているときでしょう。「誰」がわかっていないときや「代弁」が可能なときは「死人に口なし」はクリシェの域を出ません。では、「誰」がわかることと「代弁」が不可能/可能であることとはどういうことなのでしょうか。

「誰」についてはとりあえず不問にして、「代弁」が

いや、「代弁」が可能であるのは「誰」がある程度わかっているときでしょうからどうしても不問にできませんね。残念です。ただ、「「代弁する」ためには「代弁される」人がある程度特徴的でなければなりません」という気づきは活用しましょう。ここでの「ある程度特徴的」というのは簡単に言えばモノマネできるということです。もう少しだけ硬く考えるとすると、「言いそう!」ということです。モノマネはそれに寄せるのですから。すると「代弁」が可能であるのは「言いそう!」と言われうるくらいには「誰」が固まっている場合であるということになります。

ただ、「代弁」には不可能/可能のほかに許される/許されないのような倫理的、もしくは道徳的とも言える領域があるように思われます。もしかすると私がミッションを受諾しているのはこの次元を感じてのことなのかもしれません。

哲学と倫理に挟まれ、私はなんともしがたくなっています。が、哲学と倫理はやはり別なのでなんとかしましょう。私は「故人を代弁する」ことをしてはいけないと思っています、結構。なぜかと言えば、幼稚であれど直感的な言い方をすれば、せこいと思うからです。もっと道徳的というか、学校的な言い方をすれば、自分がされたら嫌だと思うからです。そういうことは他人にしてはならないからです。ただ、それは別に故人に限定されることではありませんし、他人と自分の境目はもっと明確でもっと曖昧です。だから事は簡単にはなりません。ただ、考えるきっかけとしてはいいと思います。「故人を代弁してはならない」という規範は。

たまにいますよね。「私はA(故人)の意志を引き継いでうんちゃらかんちゃら。」と言う人。私は仮にAがそのように言う人(Bとしましょう)に「お前が俺の意志を引き継いでうんちゃらかんちゃらしてくれ」と、「あなたが私の意志を引き継いでうんちゃらかんちゃらしてくれ」と言っていたとしてもなんだかせこいと思ってしまいます。だって、本当にそのように言いたかったかどうかはわからないじゃないですか。しかし、この次元を考慮するとどうにもならなくなります。私たちはバラバラ、サラサラ、何でもなくなります。それは困る、し、そもそもそんなことに私たちはなれません。だから夢物語だと言えばそうなのですが、そもそも引き継ぐことが夢物語でもあるのです。どちらが夢物語かを言い合っても決着はつかない。そうなっているのです。それを無視することが私は嫌いなのです。端的に言えば、嫌いなのです。

少し角度を変えましょう。そろそろ同居人がお風呂から上がってきます。同居人となんでもない話がしたいのでそろそろ終わりにしたいと思います。一人で閉じこもっている人と同じ部屋に閉じ込められるのはなんだか辛いことのように思われるので。ただ一つだけ言っておきたいと思います。それは私はたしかに私、個人としての私の特権的な解釈者です。しかし、解釈者に過ぎない、私はそう思います。しかし、それはあくまで個人ということをスケーリング、スケールを制限するからそうなのであって、そしてその制限にはおそらく必然的に物語ることが関わってくるので、ストーリーを構築することが関わってくるので、その先端にいる者としての私は解釈者であるだけでなく行為者でもあるのです。[何もない状態で解釈なんてできません。]いや、もはや行為者ですらない、ただやる人、そして解釈を無視する人でもあるのです。私はそう信じたいと思っています。自分の人生なり生活なりを解釈するだけでなく、私は死んだ私に耳を傾けるだけでなく死にゆきたいのです。死にたいのではありません。死にゆきたいのです。

やっとハイデガーの話が聞こえるようになってきた気がします。他の話もちらほら。

意外と上がってこないのでもう一つだけ話をしましょう。さっきのところで終わるとちょっとエモすぎるので。あれ、何を書こうとしていたのでしょうか。ああ、思い出しました。大学の授業、確か芸術系の授業でこんな課題を出された記憶があります。「あなたの死生観についてのスライドを作ってください。」という課題を出された記憶が。たしか私は古東哲明の『ハイデガー=存在神秘の哲学』という本を用いて、ニーチェの永劫回帰的なスライドを作ったと思います。[ヘラクレイトス的なスライドと言ってもいいかもしれません。]その内容はまあどうでもいいのですが、そのスライドに先生、たしかかなり宗教的な絵を描く先生でした(どこかの美術館で展示をしていたのをたまたま、その先生だと知らずに見ていたらその先生に会ったことがあります。)が、その先生はこうコメントしたのです。「死についてかなり深く考えておられると思います。」と。私はなぜかそれを思い出しました。私は死生観について書いたつもりが、私は死についてばかり書いていた気がしたのです。そのコメントを見たとき。そして同時に「生のほうも見ろよ。」と生意気なことを思いました。思い切りました。あれはなんだったのでしょうか。その先生の独特の、地獄感のある、滝のような、ナイアガラの滝のような、黒い雨のような、あの絵をいまでもたまに思い出します。話しかけられたことも。

同居人はコロコロ(ころころして床やカーペット、ソファーのゴミを取るやつ)を熱心にしています。

まだ帰ってきません。結構経ってると思うのですが。ここからはもっと短く書きましょう。帰ってきたら終わります。その人はまだ浴室、の外の洗面台のところにいます。今日は掃除の日らしいのです。どういう周期なのか私にはわからないのですが。

あ、帰ってきました。ダレなくてよかったのです。明日の推敲が楽しみです。

「『死人に口なし』かぁ、」と言っていたら「殺人予告?」と言われました。同居人に。「黙らせてやろう、ってこと?」と言われました。同居人に。「当たり前のことなのに、わざわざ言う価値がある感じがするなぁ、」と言ったら「どういう意味なん?死ぬ前に言っときぃよ、みたいなこと?」と言われました。同居人に。「『死人に口なし』を『死人であれば口がない=話すことができない』にしたら『口がある=話すことができるならば生きている』になるか。」と言ったら「対偶?」と言われました。「『死人に口なし』って『死人に梔子』なんじゃない。かあちゃんはいっつも間違ってるで。それ。」と言われました。「分析命題、たとえば『すべての独身者は結婚していない』みたいだなあ、」と言ったら「離婚した人はどうなんの?」と言われました。同居人に。「分析命題は言っても別になんにもないけど、『死人に口なし』はそうじゃないねんなあ、」と言ったら適当に返されました。三角コーナーを掃除しています。「『死人に魂なし』やったらどうなるん?」と言ったら「ふふふ」と笑われました。まだ三角コーナーを掃除しています。「『死人に口なし』と『死人に魂なし』と『死人に心なし』やったらどれが一番変?」と言おうと思います。次はノズルを拭いています。ごにゅしごにゅしと。訊きました。「『口なし』。『魂なし』はありそうやもん。」と言われました。「『心なし』は?」と訊きました。「心は、生きとってもないかもやん。」と言われました。「それやったらさ『心なし』が一番変じゃない?」と訊きました。「なんで?」と訊かれました。「わざわざ言う必要がないから?」と言いました。「死んだら心ってなくなるん?」と訊かれました。こたえる前に「きれくなった!」と喜んでいました。同居人は。「11時までにできたあ!」と喜んでいます。同居人は。



朝の私です。推敲しました。いや、修正しました。いや、補足も少しだけ、しました。[]を使って。

お布団に入ってから、電気を消してから、そこでもまだ議論は続きました。いや、ほとんど独り言だったと言ってもいいかもしれません。しかし、それは聞いている人のいる独り言です。これが極めて重要なことなのかもしれません。[まとめるのは書くのでもいいけれど、考えることは人としたほうが良いのかもしれません。まあ、かなり理想的な状態においては。]例えば、「『私以外私じゃないの』もわざわざ言う必要がないよね。」とか、「そうなるとわざわざ言う必要があることなんてあるのかね。」とか、「ウィトちゃん[=ウィトゲンシュタインのこと。同居人とはこう呼ぶことが多いです。]もそんなふうに思ってたんかな。」とか、「『語り得ないことについては沈黙しなければならない』って変だよね。」とか、「そろそろデイヴィドソン読まなきゃって感じがする。」とか、「『わざわざ』の領域が関係しているだろうね。」とか………同居人は言いました。「ウィトと太宰って似てるよね。感じが。」と。それ以外もいろいろ話してくれたのですが、それくらいしか覚えていません。

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