10月の雑記(喧嘩凸 藤川メルトダウン こんちゃん コンちゃん コンドームちゃん)
とりあえず毎月何かnoteを書こうと思ったんですが、特に書きたいことがない+他のタスクが渋滞しているのでとりあえずここ最近思ったこと・感じたことを散発的に書き留めていきたいと思います。例に漏れず今回も月末ギリギリに走り書きでやっていくので疑問点等ありましたらDMやリプライでお聞きください。
雑記
これはそのまんまなんですが、少し派生した話として、よくTwitterや橘玲さんの本とかで、「言ってはいけない」の例として遺伝的格差や日本の未来の社会的非持続性が挙げられてますが、今の時代本当に言ってはいけないのは「実は生きてても何も意味ないし、むしろ死んだ方が得なんじゃね?」という生命の価値そのものに対する疑問なのではと感じました。遺伝的云々や社会的云々に関しては、多分もう言ってはいけないでもなんでもなく、例えば「頭の悪い子は勉強しても賢い子と同じにはなれないし努力は報われない傾向があるよ!」なんて言っても「うんそうだよね」と抵抗感なく受け入れられる(ことが多くなっている)と思います。なのでこれはあくまでも前時代的なタブーであって、自殺や安楽死から功利主義的前提が捨象されて、その抽象性そのものの次元の検討と適用が一般化する(=例えば安楽死なら「辛いことが多いから死ぬ」→「将来的な苦痛が減り功利主義的優位から死ぬ」→「苦痛比率増加傾向の人生の構造を考えると、功利主義的優位が本質ならそもそもすぐ死ぬ方が得では」等の思想的推移)時代が来るのでは?と感じました。
18時半から予定があるのでそれ以降記事は書けない故いまかなり急いで書いてるんですが、金銭管理と時間管理ってかなり似たような構造(というか必要とされる能力の同一性)があると感じました。そしてそれは「対象の総体を把握して、適切な部分にそれを配分する力」という全体⇔部分の反復的な把握に関する能力だと思います。これはADHDがなくてもASDのシングルフォーカス性によって障害されやすい部分です。最近気付いたんですが僕はADHDよりASDの気の方がよっぽど強いので、何らかの手段でここを克服する必要があると感じました。
残り
時間あったら合間で書いてこの3つも掘り下げます。特に最後のツイートは自己愛性パーソナリティと演技性パーソナリティについて分析しようと思ってて、具体的には「世間で言われてるサイコパスの実態は自己愛性パーソナリティで、自己愛性パーソナリティとされてる人物の実態は実は演技性パーソナリティなのではないか」という仮説について実例を用いて分析します(実例は、松永太死刑囚、硫酸ぶっかけ男、植松死刑囚、三島由紀夫、高校生電車暴行男、その他数名です)。ただこれはかなり長くなるので気分次第で個別記事にするかもしれません。