散歩ときどき神社
とくに急ぎではないときに歩いていると目にとまるのが神社だ。
ずっとそこにあって、何度も前を通り過ぎているはずなのに、普段はなぜか気にもとめない。
ヨーロッパなどに旅行にいくと、「ここにも教会」「あ、ここにも」と目に入り「やっぱり教会が多いな」なんていうくせに、日本のあわただしい日常の中では神社の存在はきれいさっぱり忘れてしまっている。
ただ、ほんとうに、ふと。
そこに呼び寄せられるようにして、その忘れかけていた神社のたたずまいが迫ってくることがある。きのうがそんな日だった。
義母を訪ねようと電車を乗り継いだ。2時間ほどのちょっとした旅だ。
ただ久しぶりだったためか、乗り継ぎ方を間違えてしまい、最寄りではない駅で降りるはめになってしまった。
ここから徒歩だと40分、気温は34度。
GOでタクシーを呼ぼうと何度も検索をかけるが、配車できませんでした、というメッセージが繰り返されるばかりだ。
ここはかつて別荘地として人気で、大きなお屋敷がいくとも整然と並ぶが、高齢化のためか手入れが行き届かなかったり、空き家となってしまった家も多い。人通りもまばらな寂しいエリアとなってしまっているため、タクシーが通りかからないのも無理もない。
歩くか。
覚悟を決めて頭をあげたときに目に入ってきたのがその神社だった。
縦長の岩に「賀来神社」と刻まれている。
大きくはない。人一人がのぼるくらいの幅の石段が上に伸びている。
きのうは風が強かったが、神社の一角だけ風が反対に吹いている、そんな印象を受けた。
遅くなると義母が心配するな、など思いながらも、反対に渦巻く風に吸い込まれるように階段をのぼっていく。
小さな境内の入り口に手水舎もちゃんとある。鞄を置いて手を洗う。
小さな本殿の前に立ち、一瞬戸惑う。お参りってどうするんだっけ?
そうだ、二礼二拍手一礼、か。
形ばかり整えようとして、思わず鈴を鳴らすのも忘れ、慌ててお参りしたようになってしまう。何を願ったのかも分からない。
ごうごうと風がなる。見上げると、伸びた杉と竹林がつくる緑の輪から、青い空が小さく見える。空が高い。
やはりここだけ違う空気が流れているようだ。
神社の由来も祀られている神様のことも詳しくは分からない。
しかしここに、確かに人々が建立し、集い、何世紀にもわたり祈りを捧げた気配がある。人々の思い、情、のようなものを感じる。ここには人々にとって、自分たちと大きなものをつなぐ、トンネルの入り口のような場所だったに違いない。
そう考えて納得した。
ここだけ風が逆に吹くには理由があるのだと。
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