アメリカン・ミュージック・ヒストリー第5章(1940年代後半~50年代中頃まで・・・その3)
(3) 戦後からエルヴィス登場までのポピュラーソング
戦後間もない頃のマッカーサーやアメリカ進駐軍が写っている日本での映像を見ると、どう言うわけか必ずと言っていいほどドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」が流れます。ドリス・デイもですが、他にもこの時代の女性アーティストは戦後、多くの日本人歌手がカバーしたので特に馴染みが深いですね。
ダイナ・ショア、ペギー・リー、ローズマリー・クルーニー、パティ・ペイジ、ケイ・スター、白人男性では、引き続きビング・クロスビー、フランク・シナトラに加え、全盛期を迎えたペリー・コモ、トニー・ベネット、ディーン・マーティン、フランキー・レイン、そしてある意味エルヴィスのライバルとも言えるパット・ブーンも登場してきます。黒人系歌手では、戦前から人気のミルス・ブラザース、インク・スポッツに加え、何と言ってもナット・キング・コールの大活躍が目立ちますね。
又、50年代に入ると、カントリーチャートやR&Bチャートで流行した曲をポピュラー歌手がカバーしてポップチャートで更に大流行させるパターン(テネシー・ワルツ、ボタンとリボン、コールド・コールド・ハート、ハーフ・アズ・マッチ、シュ・ブーム、エイント・ザット・シャイム、ハーツ・オブ・ストーン等々)が増加してきます。
そうした中で1951年~52年にかけて白人歌手のジョニー・レイの「クライ」が全米ポップスチャートとR&Bチャートの両方で1位になっています。中村とうようさんは、白人シャウターと言われたジョニー・レイ(他にも「雨に歩けば」という大ヒットがありますが、映画で有名な「雨に唄えば」と良く混同されてしまいますが、全く違う曲です)が歌ったこの曲の衝撃があまりに大きかったので、エルヴィス登場の衝撃は比較的少なかったと書いていましたが、私も納得の名曲だと思います。
(4)日本の流行歌(戦後編)
アメリカ本土は、ほとんど無傷でしたが日本の状況はお話しするまでもないと思います。
戦後早々のヒット曲と言えば「リンゴの唄」から始まり、かえり船、東京の花売り娘、啼くな小鳩よ、港が見える丘、星の流れに、等でした。その後エルヴィス登場までの約10年間の大ヒット曲を時系列に羅列すると、東京ブギウギ、フランチェスカの鐘、憧れのハワイ航路、青い山脈、長崎の鐘、銀座カンカン娘、美空ひばりの「悲しき口笛、東京キッド、リンゴ追分等」、星影の小径、夜来香、イヨマンテの夜、ボタンとリボン、僕は特急の機関士で、ゲイシャ・ワルツ、君の名は、岸壁の母、お富さん。
そして昭和27年(1952年)江利チエミが「テネシー・ワルツ、カモナ・マイ・ハウス、ツー・ヤング」そのあとに雪村いずみが、「青いカナリヤ、オー・マイ・パパ」とカバーが大ヒットしました。
この辺から和洋折衷と言うか、別れの一本杉、カスバの女、ここに幸あり、ケ・セラ・セラ、石原裕次郎ブームでの「狂った果実、俺は待ってるぜ、嵐を呼ぶ男」、東京だヨお母さん、バナナ・ボート、有楽町で逢いましょう、無法松の一生、星は何でも知っている、僕は泣いちっち等も大ヒットでしたね。
余談ですが、この頃は(40年代後半から50年代)日本もカントリーブームでジミー時田、小坂一也、堀威夫、ウイリー沖山等が活躍し、特に小坂一也は、積極的にエルヴィスのハートブレイク・ホテルをカバーしていて結構良いです。日本でエルヴィスをいち早くカバー(エルヴィスのメジャーデビューした1956年に既に録音しています)したのは、カントリーシンガーだというのは、やはりロカビリーはカントリーの延長線上だと感じるエピソードですね。
センチメンタル・ジャーニー、ケセラ・セラ、二人でお茶を、良く流れてました
カモナ・マイ・ハウスは、かなり衝撃的でした
テネシーワルツで有名な、ワルツの女王
ペリーコモの、私的リアルタイムは、70年代最後の大ヒット曲「イッツ・イン・パッシブル」邦題「愛の夢」、今でも好きな曲
90歳になっても現役、惜しまれつつ亡くなりましたが、「霧のサンフランシスコ」、いつ聴いても沁みます
このアルバム凄く良いです。ジャズからポピュラー歌手へ
テレビ西部劇ドラマの「ローハイド」の主題歌のイメージが強いですが、他にも良い曲あり
エルヴィス以前の白人歌手の中で最も衝撃的なジョニー・レイ、特に「CRY」は、最高
テネシー・ワルツ、カモナ・マイ・ハウス、ツー・ヤングも入っているSP復刻盤
ひばりジャズの最高峰は「スターダスト」だと聴き、買いました、確かに最高です
「リンゴの唄」は、はじめとして戦後直後のヒット曲集
早く歌手引退してしまいましたが、英語の発音が良いので洋楽カバーが秀逸