小説を読む理由
単に暇を潰していて自分が何が好きなのかが全くわからず、不定期なリズムで流れてくる波の様な膨大な情報から気になる話をピックアップしたり、いつの間にか熟読している情報に気付いて『自分はこういう情報が好きなのか』と気づく。
または、好きになれるものが無い時は、自分の趣向にマッチした情報を探すより世間が注目している情報に興味を示す方が良い。世間が注目して楽しんでいる情報なのだから自分も楽しめないはずがない。
自分にとってのSNSというのはそういうモノだと思っている。
でも、その情報の波の中に自分が求めているモノが一向に流れて来ない場合。そしてその求めているモノの代用品ばかりが流れて来る場合、果たして自分は『自分が求めるもの』を諦めて代用品を喜ぶ事ができるだろうか。
そう考えた時、寿司を諦めてファーストフードを食べている心境になった。
ハンバーガーを本当に美味しいと思って食べているのか。
毎日ハンバーガーを食べたいと思えるか。自分にとって美味しい食べ物というのは何なのか。
社会人である我々は世間の出来事に細かく目を向ける必要があるのか。世の中の動きは必ずしも理解していく必要があるのか。
もっと、面白いモノが世の中には溢れて居るんじゃないのか。
空の青を美しいと思えるか。
草木の根本に生える小さな雑草の可愛さを感じる事ができるだろうか。
自分はパソコンでイラストを描いたりプログラミングをしたり動画を作ったりと色んな事が出来る。それは世の中にまだスマホが溢れる前にパソコンを購入し、まだ世間がインターネットをしていない時にインターネットをしていたからだ。
当時のインターネットにも様々な情報があったが、今の様なSNSの様なものは存在せず、楽しむためには自分で自分が興味を持てるモノを搜す必要があった。
そして見つけたモノを集めて楽しんでいた。
しかし、今の時代は、自分が望まずとも情報というものは飛び込んで来るようになった。探さずとも様々な情報は流れてくる便利な世の中になった。
この世の中において、情報をインターネットを使って探し出す必要があるのだろうか。
インターネットに『自分だけの宝物』があるのだろうか。
それは『自分が見つけ出したもの』ではなく、探すことなく一方的に与えられたものではないのか。
皆が皆手を繋いで『私達はマイノリティーだ』と仲良く語るそれはマイノリティーなのか。
そうやって『思い込まされる』という流れの中に生きていて『私は私だ』と思う事が出来るなら幸いなのだが、自分にはそれが出来なかった。
時代の影響というものが何かとてつもなく恐ろしい悪魔の様なものに感じ、そしてその流れから外れてしまうと、その流れに二度と戻れなくなってしまう様な気持ちにさせられてしまった。
だからその時代の流れから外れる道を選んだ。何故なら『その流れから外れると二度と戻れなくなってしまうと思わされている流れ』になんて乗りたくないし、自分はクリエイターとして何かを産み出す力を持っているからだ。
流れの中に存在しない存在。
それになりたいと思った。
自分はこの時代の悪魔的な力がまだ及んで居ないサンクチュアリを探す事にした。
そしてたどり着いたのが、自分がまだ生まれる前に書かれていた小説の数々だった。
時にはそれは絵本でもあった。
そこには今の時代の流れには存在せず、しかしとても魅力的で高濃度なモノで溢れかえっていた。
私は小説を読んでいるのでは無く、ただ、その悪魔的な力の影響を受けていない世界を覗いている。
それを行いつつ、最新の技術を用いて人々を楽しませるデジタルコンテンツというモノを作る仕事をしている。
肉を食べて野菜を食べるというバランスを取る事と同じだ。