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煙の向こう側  9話

心臓が口から飛び出しそうだというのは、こんな時を言うのだろうと
なごみは思った。
約束の時間が迫っていた。
深呼吸をして扉を開けた。
店内を見回すと隅の方に品のいいおばさまと青年という二人ずれが座っているのを見つけた。傍らに寄り「失礼ですが、山名さんでしょうか?」と声をかけた。
「はい」と、そのおばさまは、にっこりと微笑み返した。
「はじめまして、和です」と一礼し席についた。
すぐに山名だと分かったのが、自分でも怖いくらいだった。
「来てくれてありがとう、山名嘉子です、これが長男の賢介です」
と紹介された。
賢介は「はじめまして、山名賢介です」と、ペコリと頭を下げた。
顔をあげた賢介を見て、和の心臓は止まりそうになった。
賢介は、和の記憶にある父の顔に、あまりにも似ていたのだ。
30歳を少し過ぎたところだろうか。
ウエイトレスが水を運んできた。
「同じものをお願いします」和は傍目からは落ち着いているように見えたが、手にしたハンカチはぐっしょり濡れていた。

嘉子の方から口を開いた。
「和ちゃん、思っていたとうりの人だわ」
「お母さんは元気でいらっしゃるの?」
「父と離れてから、祖母のところに預けられました。中学になって一緒に暮らし始めましたが、早くに家をでましたので・・・」
「3年前からまた一緒に住んでいますが、私は母のことが好きではありません。私から父を奪った人なので…」そこまで言うと涙で言葉が詰まった。

和は自分でも驚いた。母のことを嫌ってはいても「母のことが嫌いだ」と口に出したのは初めてだった。しかも、他人の前で。
「苦労したのね。可哀そうに…」嘉子が口をはさんだ。
「父のこと、教えていただけませんか?」

和の父が再婚したのは、離婚して2年が過ぎたころだった。
両親がすごぶる乗り気の縁談だった。
自分たちの気に入る従順な嫁を探してきたのだろう。二度と失敗は許されないのだから。

嘉子は和の母より1歳若い。
「あなたのお父さんは、あなたのことを忘れたことはないと思うわ。口には出さなかったけど・・・」
「もう随分前のことになるけど、姪の結婚式の日、泣いていたのをみたわ。どうしたの?と聞いたけど、何も言わなかった。でも、私にはわかったの。姪は、あなたと同じ歳なのよ。三男が産まれた時も、そうだった。名前の候補の中に『和』というのがあって決めかけてたんだけど、この字はやめようってきかなくて。その時は気づかなかったけど、和ちゃんを思い出すのが辛かったんじゃないかしら」

「私も山名と結婚してから、いろんなことがあったのよ。十五年前に子宮がんになって、もう死ぬのかと思った時、お父さんはとても優しかったわ。俺が絶対助けてやるって言ってくれたの。だから私も、お父さんが癌だと分かった時、どんなことをしてでも助けてあげなければって思った。でも、もうそのお父さんはいないのね」と、言葉を詰まらせた。

「5年たった今でも、こんなふうなんですよ」と、賢介が言葉を続けた。
「実は僕は、父が癌だと分かった時、遠方のある施設に入っていたんです。今思えば、本当に親不孝だったと反省しています」

何故か父は、頑なに手術を拒んでいた。
「病をおして面会に来てくれた時、泣いて手術を受けてくれと頼みました。父には癌だと告知はしていませんでしたが、多分、分かっていたんでしょう。父の手術にも、臨終にも立ち会うことはできませんでした。そんな意味では僕も和さんと同じだと思っています。だから和さんの気持ちが少しは分かると思うあった。んです」
しっかりした青年だった。祖父が寝たきりになった時も、よく嘉子を手伝っていたといえてう。施設のことは、何も聞かなかった。聞いてはいけない気がした。和は顔をくしゃくしゃにして聞いていた。


「お墓参りをさせていただけませんか?」
和がやっとの思いで、口を開いた。
「参ってやってください。どんなにお父さんが喜ぶことか」
「お墓の場所は、また後日教えるわ。今日はせっかく会えたのだから、もう少し話していたいわ」
それは、嘘のない気持ちのようだった。
嘉子の言葉を素直に受け入れ1時間ほどたっただろうか
「それでは…」と、席をたちかけた和に
「実は今日は、お願いがあって・・・」と賢介。
「父が亡くなってから何も解からずに月日がたってしまったのですが、ここへきて、父名義のものを母の名義に替えておいた方がよいのではないか、ということになり、ある方に相談したところ、『早く手続きしないと国のものになってしまいますよ』と助言を受け慌てた次第です。その手続きをするにあたり、母が良い返事をしないので、問いただしたところ、あなたの存在が分かったのです」
「失礼なことですが、1か月前まで、僕は和さんのことは知りませんでした。母は祖父から聞いていたようですが・・・」
「そのことを思うと、この子の心中もどんなにか複雑なことかと思います」
と、嘉子が口を挟んだ。

賢介は、持っていた鞄から一枚の紙を取り出し和に手渡した。
「ご面倒ですが、これに署名、捺印と和さんの戸籍謄本と印鑑証明を各1通ご用意いただけませんか。なるべく早い方が助かるのですが」
和は「わかりました、それでは私も平日は仕事がありますので、揃い次第ご連絡差し上げるということでよろしいですか?」と答え席を立った。
その紙の内容が何であるかも知らないままに。

賢介が父に似ているのは、顔だけではなかった。背格好や笑うと金歯が1本見えるところまでそっくりだった。
帰りに出口で和は「あなた、お父さんにそっくりね」と賢介に声をかけた。
「僕もそう思います」と右手を差し出し
「親指の傷の痕も一緒なんですよ」と、屈託のない笑顔を返した。
和は二人に「ごちそうさまでした、ありがとう」と頭を下げ、踵を返した。

和は帰る途中、何も考えられなかった。ただ、賢介があまりにも父に似ていることに困惑していた。
和の記憶は、遠い昔の父とのわずかな日々に戻っていった。
視界がみえなくなるほど涙がとめどなく流真野中でグルグルれた。
最後に食べたソフトクリームと父の笑顔、賢介の顔が重なって走馬灯のように頭の中をグルグル廻っていた。

家に帰ってからも、それは同じだった。

その日の夜遅く少し気持ちが落ち着いたところで、こうに昼間のことを話し、渡された一枚の紙をみせた。
「お父さんが亡くなったから、家や土地を奥さんの名義に替えるんだって、私が印鑑を押してあげないと、国に取られるとか言ってた」と付け加えた。

「和、この内容ちゃんとみたのかい?遺産分割協議書ってかいてあるじゃないか。まぁ、和がいいんならいいけどな」と孝。
「主人が亡くなったんだから、その名義が妻になるのは当然のことじゃない?でも、国に取られるってどうゆうことなんだろ?」と、その時
和は不思議に思った。
「印鑑は押すけど、一応どうゆうことなのか調べてみようかな、国って国民の財産、取ったりしないよねぇ」と、和。

和は、小さいころから好奇心旺盛で、自分の納得のいかないことは、とことん調べたがる性格だった。このことが、また大きな問題へと発展していくきっかけとなる。
もちろんこの時点では、和自身、自分の好奇心を満たすためにアクションを起こしただけであるから、当然、指示された戸籍謄本と印鑑証明は取り寄せていた。

まず、遺産分割協議書とは何たるか?を調べることから始めた。

遺産分割協議書とは、相続人全員が相続財産について誰が何を相続するかを協議を行い、その書面に全員の署名、実印の捺印をするものである。

和に渡された用紙は、たった1枚、他の署名も捺印もない。
山名には賢介がいるのだから、少なくともこの書類上に賢介の署名、捺印があるか又は、署名のスペースがなければならない。
賢介はそのことについて一言も触れず、ただ、和の署名捺印が必要だといっただけだ。
おまけに手続きしないと、国に取られるとまで言っていた。
納得のいく説明が欲しかった。

あれから何度も、嘉子からって電話が入っていた。
柔らかい物言いだったが、明らかに書類の催促だと思われた。

この時、和に初めて一抹の不安がよぎった。

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