煙の向こう側 8話
毎日のように嘉子から電話が入っていた。
嘉子は山名良二の妻、つまり和の父の後妻である。
とにかく会って欲しいの一点張りである。
和はどうしたらいいのか、わからなくなっていた。
ただ『お父さん』という言葉だけが頭の中をグルグル廻っていた。
やがて、父とドライブしたこと、大好きなクマのぬいぐるみを買ってもらったこと、一緒に写真を撮ったこと、堤防に座って食べたソフトクリームのこと。父との思い出がそうたくさんあるわけではなかったが、三十年近く封印してきた父の記憶が一気に噴き出し頭の中を走馬灯のように浮かんでは消えていく、それがいっそう涙を誘うのだった。
この後、何日かは何をしていても泣けた。
生きていれば、いつか会えるかもしれないという漠然とした思いがどこかにあったのだと思う。その思いが今、砕け散った瞬間でもあった。
山名に会うべきかどうかを孝と何度となく相談したが、結局、和が決めることだという結論はゆるがなかった。
和は孝の母に、このことを打ち明けた。まったくの第三者である孝の母なら、何か良いアドバイスが得られるのではないかと考えたからだ。
義母は、最初は驚いた様子だったが、すぐに平静を取り戻し、会いたいというのはわからないでもないが、他に何か要件があるのではないか、そしてそれは相続の話ではないか、という意見だった。いずれにせよ、義母もあなたが決めるべきことだと和を諭し、受話器を置いたのだった。
それから何度目かの電話の時「お会いします」と和は返事をした。
その答えに、嘉子は泣いているようだった。
本当に心の優しい人なのだとなんの疑いもなく嘉子と会う日を待っている
和だった。
この時、義母が口にした『相続』という言葉は和の多玉野中からは消えていた。
「お一人で来られるのですか?」と聞いた自分の言葉が意外だった。
「息子と伺います、お宅はどの辺りですか?」という問いかけに、母の顔が頭をよぎった。
まだ母には何も話していない。そのために自宅への電話を断り、携帯の番号を教えたのだ。こんなことを話せば、何を言い出すかわからないと和は思った。
いや、和から父を奪った母に話す必要はないと思っていたのかもしれない。
「突然のことなので家に来られるのは困ります」
「お互いの負担の少ないという意味でも、丁度中間地点のわかりやすい所で
お会いできたらと思います。」と、和が提案した。
嘉子は快諾してくれた。落ち合う場所と日時を決め受話器を置いた。
和はすぐに人を信用してしまうところがある。そのため、後で泣いたことがあるのは一度や二度ではない。しっかりしているように見えて、案外ダメなところがあるのだ。
その点、孝は一見頼りなさそうに見えて実はしっかりしている。
物事の後先を考えずにカッとなって行動する和とは反対に、じれったい程考え抜いてから答えをだす方だった。どちらが良いかは、時と場合によるが、
どちらにせよ、それで、この夫婦の均整が取れているのは確かだった。
父の死を聞いてから様子のおかしい和の心中を気遣ってか
「ひとりで大丈夫か?僕も一緒の方がいいんじゃないか?」と言ってくれたが、和は「とりあえず会うだけだし、優しそうな声だったから一人で行ってみる」と笑ってみせた。
この頃、筒美は持病の糖尿病が悪化し、田舎に帰っている。田舎には長男夫婦が住んでいる。
この時の、母の言いぐさときたら
「出て行ってくれてせいせいした。糖尿用の食事も作らなくていいし、仕事も気兼ねなく続けられる」と言いながらまた煙草をふかしているのだった。
和は、母の筒美に対するこの高飛車な態度と物言いが大嫌いだった。
和に対しても、いつもそうだった。頭ごなしに怒鳴りつけ和を『かたつむり』の殻の中に閉じ込めてしまうのだ。
さっき、テレビで子供虐待のニュースをやっていた。
母はそんなニュースを見るたびに言う
「自分の子供にそんな酷い仕打ちをするなんて、親じゃない、まして母親ならそんなことできるはずがないのに」と。
和はその言葉を聞くと、無償に腹がたち、吐き気さえする。だから耳を覆ってその場を離れてしまうのだ。
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