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『プロミシング・ヤング・ウーマン』評 加害のアドレナリンは有毒か?〜『宮本から君へ』、『ジョーカー』の熱狂と〜

※1 一度観ただけの映画についてなので「やっぱり違うな」と思ったら削除します。
※2 ここで挙げる映画はどれも作品の質や作り手の熱意において最高のものです。それらを批判する意図は一切ありません。私個人の感想と、周囲の感想を見ての「感想の感想」という感じです。
※3 もちろん映画の結末に触れますので未見の方はご注意下さい。


『プロミシング・ヤング・ウーマン』を大変面白く観た。


もちろん性加害について全ての人間に当事者意識を喚起する試みは意義深く、時代的価値も大きく、成功もしている。色彩やカット割りなど細部まで計算されていることも各所で考察されている通りだ。


表題(「プロミシング・ヤング・マン」:前途有望な男性を守る際に使われる表現)やファーストカット(酔って腰を振る男たちの股間アップのスローモーショーン。女性の腰回りには当たり前に使われてきた絵)に代表されるように、なぜかまかり通っていた男性優先主義、もっと正確に言えば男性を人格、女性を物格視するムードを反転させて居心地の悪さを炙り出す仕掛けも筋が通っていてかつアクロバティック。非の打ちどころもないように思える。

しかし、なんだろう、この居心地の悪さは。
見て見ぬ振りしてきた加害・被害から指差される表面上の居心地悪さではない。主人公キャシーの制裁パートがほとんどスカッとしないのだ。


事件の現場を黙認した女性に、レイプ被害の恐怖をイメージだけで体験させたり、
事件を揉み消した学長の娘を疑似誘拐したり。
実害を起こさないイマジナリーな制裁の数々はスマートで現代的な解決に見えた。

しかしどうだろう。
彼女が山小屋に乗り込む意味はあったのだろうか?と思い始めると、冒頭から続いたクラブでの男狩りもなんだか苦しく見えてくる。「実害を起こさないイマジナリーな制裁」というポリシーがないなら、実際に敵を加害する時としない時の差は何なのか?
合意も何もない酩酊した女性と無理に性交渉に及ぼうとした男たちは当然非道で糾弾されるべきだが、その罪を誘き出したのはキャシーではないか、と。前科がある常習犯を特定して誘き出したならまだわかるが、キャシーがやっているのは囮捜査だ。


決してキャシーも大正義として描かれるわけではない。
囮捜査的な自警団活動もそうだし、他人の車を突然破壊しても何もお咎めなし。映画内の世界から何も罰を受けないやりたい放題のキャシーが過剰な加害に及んだ山小屋で返り討ちが発生し、観客はそこで辻褄が合ったような気分になる。「ああ、この世界も信賞必罰なんだ、よかった」と私は胸を撫で下ろしさえした。

詰まるところ、キャシーが自らの命を賭けて余罪を作らなければ確実に男たちを告発できないと考えたところに、この映画が提示する世界像のリアルな苦さがあるのだが、それでもやはり、


①クラブでの囮捜査的自警活動 ②ラストの山小屋


は、キャシーが加害の快楽に酔っているように描写されていないだろうか?
そして観客の私たちがそれに乗ってスカッとするように煽っていないだろうか?その煽りさえ観客に反省を促すためのフリだとするならば、その意図は多くの観客には届いていないように思う。

これが純然たるスリラーやファンタジーであれば、復讐に燃えるヒロインの行動はカタルシス材料になっていい。
しかし、厳然たる「性加害の無視」という現実に立脚した物語なら、架空の悪事・加害のカタルシスはノイズではないだろうか、と思ってしまうのだ。
加害のアドレナリンが止まらない人たちはインターネットでも居酒屋の隣の席でも簡単に見ることができる。


私は少なくともキャシーには、そうした加害アドレナリン依存から解脱しようとしていて欲しかった。
何も天使であれと言いたいのではない。加害が自己目的化している瞬間の自分のテンションに、ふと気づく1シーンがあればそれ以上は何も望まない。

とばっちり的に他映画のタイトルを挙げてしまおう。
普通に現代社会生活を送っている大人が『ジョーカー』(2019)のアーサーに共感して熱狂する言葉を隠さずに、むしろ誇らしげに叫ぶのを見て当時の私は恐怖した。トッド・フィリップスをはじめとする作り手たちが「共感は半分しかできないようにした」と述べていることが全てだ。『時計仕掛けのオレンジ』(1971)に熱狂したあの頃とは違う。べっとりと我々を覆う格差の固定化の話だ。現実で苦しむ主人公の解決が暴力であった時、熱狂してはいけないと思う。悩まないといけない。

『宮本から君へ』は漫画連載時に大議論を呼んだが、映画公開時の感想のバリエーションの貧しさは、20年間の日本人の感情の劣化を如実に顕していた。男の社会で弱い主人公が、妻の復讐と息巻いて巨漢の金的(男性性の象徴!)をちぎり取る様を見て熱狂している場合ではない。なぜ、これが平成初期には仮にも「解決」の記号たり得たのかを悩むしかないはずだった。一部の女性客の違和感の指摘はかき消され、男性性に回帰する主人公にストレートに熱狂する男性客の声が有害なほど大きかったと記憶している。

映画に罪はない。
上質な映画は常に「問い」だ。
感想が、批評が、問題意識を引き継いで次の時代に映画を有効に届けなければいけない。


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大島育宙
文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。