マサイ族の父子が来てくれたよ
今日ヒミツキチに1組の父子が来てくれました。
パパのジョンと、12歳の息子さんスタンリーです。
彼等は「マサイ族」と呼ばれる少数民族としての暮らしをしています。
私は民族の名前は知っているものの、
「アフリカの民族」
「足が速くて目が良さそう」
「マサイジャンプ」
これしか、しかも、ほぼイメージのものしかありませんでした。
少数民族とか、先住民族とか、
なんだか耳にはしたことあるけれど、
でも自分とはどこか遠くて、違う。
「滅多に会えないマサイ族に会える!」
つい先日まで、どこかそんなミーハーな気持ちでした。
今日ジョンが伝えてくれた、
マサイ族の住むケニアという国、マサイ族が抱える社会課題。
裕福な老人のもとに、8歳の女の子が嫁がなければいけなかったり、
10歳に満たない子の出産や割礼によって、出血多量によって命を落としてしまう子どもがいたり、
水の干ばつ問題で、20Lの水を40kmの道のりをかけて運ぶ子どもがいたり、
知っていそうで、全然知らなかった話。
シビアな現実を知ったことにショックを受けるというよりも
「知ることから全てが始まる」
に身を包まれた感覚でした。
ジョンが伝えてくれたことを受けて子どもたちと感じたことをサークルで出し合っていたときに、
2年生の子たちが、
「日本は便利だし、マサイ族はかわいそうなこともたくさんあるけれど、でも、マサイ族は自然の幸せも考えて壊さずに一緒に暮らしているし、それぞれの幸せの良さがあるよね」
「動画を見てわかったと思ったけど、直接言葉で聞くと新しくわかることもあるし、結局行ってみないとわかんないことのが多いと思う。ケニアに行った方がいい。」
「いろんな国の文化が知れるっていいことだなって。
日本の文化、楽しく遊べるけん玉とかコマも教えてあげたいな!」
と、言葉にしていました。
便利さが豊かさ、幸せとイコールではないということ、
そして「知る」ということがこんなにも軽やかだということ。
率直に心が美しいな、と。
今日来てくれたのは「マサイ族」ではなく、
「ジョン」と「スタンリー」。
当たり前のことだけど、名前がある。
日常で、
「男」
「女」
「上司」
「先輩」
「後輩」
「管理職」
「妻」
「夫」
「日本人」
・・・
などなど
私たちは自分たちを表すために役割や所属を表す言葉があって、
でも無意識に、
カテゴリーという膜を通して相手を見てしまうと、
分かった気になってしまう。
勝手な憶測で見てしまう。
無自覚なジャッジをしてしまう。
いつのまにか「知る」ということをやめてしまうことが、
日常の中にもあるな、と。
目の前にいる人を、ひとりの同じ人間として、
過去があって、
想いがあって、
大切にしたいものがあって、
そういうものを知ろうとすることを大事にしたい。
そして今日、ヒミツキチに2人が来てくれたという事実の裏に、
たくさんの人の、沢山の想いが、
私の想像には及ばないほどあって、
そして、ご縁や人を大事に想うことを続けてきたこの子達がいるから、
実現した今日だということ。
知れば知るほど、
毎日が愛おしくなる。
ジョンとスタンリーが無事にお家に帰れて、
どこかでまた再会できますように。