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葦会#08 東浩紀「訂正する力」

今年最初の葦会とnoteへの記録

2024年最初の葦会を1月13日に行った。第八回目。今回の本は東浩紀氏による『訂正する力』。参加者は3人。

会が終わる度に、交代でこのnoteに記録を残していくというルールを作っているが、各々の仕事の忙しさなどもあり、これまで会に参加している4名全員がそれぞれ一回分の宿題をもっている状況となってしまった。

このnoteへの記録というものが、いつの間にか少し気合を入れて書かなければならないものとなっていたことも一つの原因かもしれない。本来もっと気楽なものだという認識を共有していたはずだった。

前回公開した記録は第四回。そして、今回執筆しているのは第八回。このままでは、このnoteに記録を残すというルールは自然消滅しかねない。だが、やりっぱなしというのも勿体無い。ということで、これから先のことを考えて、記録を残し続けていくということに主眼を置き、今回はより簡易な記録となるよう試みる。

訂正する時が来た。

本題へ。本書を読んできたそれぞれの参加者から挙がった主なテーマは次の5つの事柄と訂正する力の関係についてであった。

1.転生、タイムリープもの

2.復興、まちづくり

3.個人美術館の展覧会

4.法律

5.ネガティブ・ケイパビリティ

転生、タイムリープもの

転生、タイムリープもののコンテンツに登場する主人公は「リセット」や「やり直し」を繰り返す果てに自身の交換不可能性に気がつき、ほとんど元の状態と同じに戻るということが多々ある。それらは、逆説的に「リセット」の対比として本書の中で語られる「訂正」の有用性を補強しているという見方もあるのではないか。だが、直接的に「訂正的」なストーリーを描くコンテンツというのは中々無いようだ。

一方、昨年放送されたドラマ「ブラッシュアップライフ」。主人公は何度も自分の人生を繰り返す中で、職業が変わったり、友人との親密度が変わったりするが、大枠の流れは毎度同じとも言えるものを経験しながら生きていく。自分の人生を解釈し直し再定義し続けるという意味では訂正的な物語とも言えるかもしれない。また、このドラマは「自身の親密な公共圏をいかに維持するか」ということに重きが置かれているようにも見え、その点でも本書と通づるものがあると感じられる。

復興、まちづくり

災害からの復興事業・まちづくりは、通常の事業と異なり、時間的に圧縮された事業モデルが基本である。本来の事業では「人同士の関係性」が重視されるが、災害後の復興では「時間」が最も強い決定権をもつ。その結果、即物的な事象が優先されることとなる。いわゆる大文字の復興である。

しかし、本来復興のまちづくりこそ訂正可能性に開かれていなければいけないのではないか。つまり、時間的な制約を強く受けつつも、災害以前からそのまちがもっていたものを掘り返しながら、冗長性のある事業モデルを作っていくべきだということだ。そしてそのために、絵を何度も描き直しながら進めていくやり方こそ訂正的で有効な方法と考えられる。

個人美術館の展覧会

昨年夏から秋にかけて、小国町にある坂本善三美術館で行われた展覧会、「コレクション・リーディングvol.7  おぐに美術部とつくる善三展『好きなものを好きって言う』with森美術館」について。地元の中高生が坂本善三の好きな作品を選び、選んだ絵画に合った展示空間を作るという企画。

それらの展示の中で特に良かったのは、暗室に懐中電灯だけを持って入り、坂本善三の絵画を鑑賞するというもの。カンバスの境界や作品の全容がわからないことで、絵画の外側の世界と絵画の関係性を考えることができる展示となっていて、坂本善三という作家を再解釈することができるものだった。

坂本善三美術館のように一人の作家の作品を多く所蔵する美術館では、展覧会の名称、展示する作品の組み合わせ、展示方法を変えながら同じ作家のこれまで見えていなかった側面が提示されることがある。鑑賞者は、前に行った時と同じ作品が展示されているのに、別の印象をもつ。そして、その作家に対する解釈が訂正されていく。そういう意味で、個人美術館の展示会は訂正可能性に開かれたフォーマットであると言えるのではないか。

法律

弁護士である水野祐氏は『法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する』、という著書の中で、創造的行為を規制するだけではなく、促進させるものとしての法及び法解釈のあり方を提案している。

例えば、Airbnbが日本でサービスを始める際、少なくとも旅館業法、建築基準法上グレーな存在となったが、自らが果たしたいと考える社会的役割を実行するために、法に独自の解釈を加えることで、サービスを法に適合させるストーリを作り、ロビー活動を行ったという。そこにあるのは、法の潜脱や違法の助長とも違う、そして思考停止した「法令遵守」という考えでもない、法が時代とともに変化しうるということを前提認識とした、法にきちんと向き合う態度である。

そういった柔軟な態度が企業にも行政にも求められており、そこにはやはり「訂正する力」が必要とされる余地が多分にあると思われる。

ネガティブ・ケイパビリティ/まとめ

『ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えのでない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力』を指します。あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。』
(『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』 箒木蓬生 著 p.3より引用)

訂正する力の有用性は東氏の言葉により十分に理解できた。だが、当人も書くように訂正する力はそれを行使するための環境をまず整えなければならない。いつでも、どこでも使える訳ではない。そうした、訂正する力が使えない状況に陥った時、単純さや極に走ってしまわないようにするために、ネガティブ・ケイパビリティを自身に備えておくことが大切ではないかと考えた。環境を整えるまでの猶予を作ってくれる保険のような存在。訂正する力とネガティブ・ケイパビリティの両輪。単純さや極に走ることに否定的であるという点でこれら二つは根底に近い思想があると感じる。

そもそも、このネガティブ・ケイパビリティも第四回葦会で扱った『ケアの倫理とエンパワメント』(小川 公代 著)で知ることができた考えだった。このように本を通して、訂正する力やネガティブ・ケイパビリティのような、これまで知らなかった考え方や思想に出会い自らを訂正しながらそれらを身につけていくことの面白さも改めて実感できた回だった。

この葦会も参加者にとっての親密な公共圏の一部としてあり続けられるような議論を重ねていければよいと思う。

次回の本は藤原辰史氏の『ナチスのキッチン「食べること」の環境史』。


p.s.それぞれの担当の中で温められている第五回から第七回までの記録がいつか公開されることを期待したい。

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