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1930年 沖縄からフィリピンに移住した曽祖父の仲田源造について

1930年、沖縄からフィリピンに移住した、曽祖父の仲田源造について話を聞くために、祖母の実家のあった金武に向かい、親族に会った。沖縄海外移民の父、當山久三の記念館を見る。そこにあった記事と書籍、親族の話を簡単にまとめたものをメモしておく。

密航により二十七日間かけてダバオにたどり着いた源造らは、東耕地区のダグダングヮを任され、マニラ麻を栽培。フィリピンの労働者らを取りまとめるようになる。現地で妻ウシと共に8人の子どももうけ、当時としては裕福な生活をしていた。川沿いの家で、庭にはドリアンがなっていた。戦況の悪化により2回に分けて家族を帰国させ、本人は1945年、ダバオで米兵に足を撃たれた後、帰国の船に乗るが、陸近くで米軍に攻撃を受け、船が沈没。泳いで宮崎の港に辿り着く。弟、源繁はダバオで戦死。源繁の子どもらも同時期に帰国し、鹿児島にいたが、戦時中に餓死。沖縄に連れて帰れなかったことを後悔する。戦後は、沖縄相互銀行(現在の沖縄銀行)の金武支店長になった。フィリピン人の従業員を守れなかったことを後悔して、戦後も長い間フィリピンには行けなかったが、1972年の沖縄返還後、三男の雅夫と共にフィリピンでの慰霊祭に参加した。

長女の初子と次女のミエ子は帰国後、首里の女学校に通い、優秀な成績を残した。二人は首里から金武に戻り、三女のヒロ子と共に、空爆を逃れるために森の中で生活した。初子はマラリアで死亡。戦後は再び皆で生活したが、源造は娘らに厳しく、キセルで叩くことがあった。その後、ミエ子は当時ハワイに住んでいた、源造の叔父の常助の紹介により、神奈川に住んでいた仲本興和と結婚。光一を出産した。ヒロ子と四女のスミ子は東京の学校に通い、2年間、一緒に生活をした。ミエ子は自転車に乗るのが得意だった。

仲田源造(1894-1982) 徳八の長男。
妻:ウシ(1900-1976)
長男:昇(1924-1947) 結婚式が金武で行われた。
長女:初子(1925-1945) 帰国後、首里女学校へ。マラリヤで死亡。
次男:多見男(1928-1994)
次女:ミエ子(1930-2017)帰国後、首里女学校へ。
三男:雅夫(1932-2018) 戦時中、疎開のためウシに対馬丸に乗ることを提案されたが、拒否して沖縄に残る。その後、対馬丸は沈没した。
四男:恭一(1935-2003)
三女:ヒロ子(1937-) 聖徳栄養専門学校卒。
四女:スミ子(1940-) 武蔵野女子短大卒。

取材協力:宮城すが子、盛田ヒロ子
執筆:仲本拡史

金武町指定文化財ウッカガー(金武大川)、錆びた鉄製の鳥居に樹木が巻きついている。
金武観音寺内、日秀洞内部。鍾乳洞の中から外を見上げる。中心部に光が見える。
沖縄海外移民の父、當山久三の銅像
當山久三の記念館

1968年(昭和43年)9月21日 土曜日 沖縄時報

感無量で迎える移民祭 金武村の宜野座、仲田さんら

 金武村は二十二日、恒例の移民祭を迎える。今年は沖縄海外移住六十九年で沖縄海外移住協会、政府農林移住局と連携して、盛大な移民祭を催すことになっている。この移民祭には金武村青年会、金武村婦人会、各区青年かいの村内各団体が積極的に協力、前夜祭(二十一日)は銅像前で婦人会、青年会、村民による盆踊り、隠し芸大会、花火打ち上げなどが行われる。当日(二十二日)は金武小学校庭で式典とエイサー大会、それに金武商工会による全島相撲大会が行われることになっている。金武村の移民祭はこんどで八回目を迎えるが、移民祭は金武村が生んだ移民の父・当山久三翁の偉業、遺徳をたたえ、同時に”青年よ、広い世界に雄飛せよ”と開拓精神の高揚とあすをになう青年の心に進取の気性と大きな希望を与えることを目的として毎年行われているものだ。ところで、金武村の移民といえばこれまでハワイ移民だけが大きく取り上げられ、フィリッピン移民はあまり語られていない。そこで移民祭を前に金武村出身者のフィリッピン移民、とりわけ正規の移民船ではなく帆柱を立ててボルネオからダバオまで二十七日間かかってたどりついたという移民青年の苦闘を伝えてみたい……。(社会部・荷川取記者)

40年前単身で渡比 土人に囲まれ死ぬ思いも

仲田源造さん(75歳) 宜野座辰吉さん(74歳)
まず、このフィリッピン移民”恐怖の七十五日”の思い出を語る人を紹介すると仲田源造さん(七五)と宜野座辰吉さん(七四)のふたり。
 話は大正の初期にさかのぼる。当山久三らが第一回ハワイ移民を送り出したのち、日本の国情の変化でハワイ移民もストップしたりしていた。そうしたとき、当山久三は大城孝蔵(故人)らにフィリッピン移民の特命を出し、多くの沖縄人がフィリッピンに渡った。
 仲田さんらもじっとしていられずフィリッピン移民を思い立ち、
いざ手続きしょうとしたところ正規の手続きを踏むと二、三カ月かかることを知った。「それなら いっそのこと自分たちで船を借り目的地のダバオまで行うじゃないか」だれかがいうと、たちまち十余人の青年がこれに賛同、話はとんとん拍子に進んだ。
 まず内地へ行き、門戸から香港までは商船で行った。当時香港まで行くのはわけないが、そこから先が危ない船旅だった。
 当時仲田さんらと同じような考えで香港まできていた者も多く、そのうちのいくつかのグループは船に乗って出発したが、その都度海賊に襲われ、命からがら逃げ帰る者が続出した。これは客を乗せる船と海賊とが手を組んで、海賊に連絡を取り途中で海賊に襲わすというものだったようだ。仲田さんのグループ十三人は、ラハラ島まで機関船で行き、そこで当時の四十円で舟(帆柱のついたもの)を買い求め、十三人がこれに乗っていよいよ出発となった。
 出発のときカメ六個に飲料水を準備して出たが、出航二日目に海賊の根城とみられるホロ島がみえた。しかし、そこに近づくことはひじょうに危険なのでひと晩沖泊りすることになった。
 ところが、沖泊りで寝ているうちに運悪くイカリ綱が切れてしまった。あわてて起き上がってみると舟は流されており、自分たちが今どこにいるのかさえ皆目検討がつかなかった。こうなると、どこに帆を向けて良いのやらわからず舟の流れるまま五、六日間漂流していた。
 こうなると、おそらくセレベス海を抜けて、太平洋に出るかもしれないとみんなの胸に不安が高まってきた。さて、水はどうなっているかーというと残り少ない。それもそのはず、「経済的」ということと、長持ちするという考えで’干し魚’を持参した為飲料水が思ったより早くなくなるのはあたりまえのことだった。
 慌てた十三人は、とにかく太平洋に出てはならないーとの考えから、思い切って九十度方向を変え一定の方向で進んでみた。するとどうだろう。一週間目ごろになって雲か島影か判然としないものがかすかにみえた。「島であってくれたらいいがーー」祈る気持ちで進むこと三日間、眼前に青々とした島があった。
 喜び勇んで島に上陸、川で十日間も溜った体のアカを思い切り落としているところへ原住民(土人)がきた。手に手に武器のヤリを持ち、またたく間にぐるっと取り囲まれてしまった。”殺されるー”と思ったが、それよりも食い物が欲しい。コワイーという気持ちよりなんでもいいから、とにかく何か食べたいーという気持ちが先だったと仲田さんらは語る。
 言葉は通ずるわけはないから、手まね、足まねで食を乞うと、イモ(タピオカを蒸したもの)やマメなどを恵まれやっと命拾いした。食を乞うのに苦心したとき、与那城という人などは赤いフンドシをはずしヒモの部分を首にまきつけて胸から腹の部分までたらしてみせると、土人は大喜び「これは最高の前掛けだ」と思ったどうかたくさんのマメを恵んだこともあったと当時の苦心を語る。
 「いまでこそ笑い話として話せるが、そのときは命がけだった」という仲田さんらの話から、その時のシーンを思い浮かべることは容易だ。
 さて、土人たちとの衝突はなにもなく、それどころか、満腹になって舟に戻り出発しようとしたところ、ほとんど全員が中毒症状を起こし、口からも尻からも食べたものすべてをはき出してしまった。
 そのため出港を延期した。出るだけ出してしまえば皆元気を取り戻したので、海岸に降りて潮干狩りをすることになった。潮干狩りにかかる前、「取れたものはみんなで分け合おう」と約束してはじめたが、そのうちのひとりがタコを見つけ、ひもじさのあまり、生きたままのタコをあわてて口に入れてしまったからたまらない。口の中に入れたはずのタコの手の部分は、口の中にぴたりと吸い付いてしまい。食べようにも食べられず、かといって抜き取ろうにもそれさえできないで、苦しんで助けを求めていたのを仲間が発見、やっとこさ口の中に吸い付いていたタコをもぎ取った。「みんなで分け合おう」と約束したもののひもじさには勝てなかったのだろう。
 翌日、出発しようとしたら、運悪く、中毒が悪化したため死亡者が出てしまった。そのため、死体を埋葬しようと陸へあがったら、原住民のなかにも死人が出たようで彼らの葬式をのぞいてみると、これがなんと”風葬”であった。丸太の上に死人を乗せ、そこら一面がい骨が散らばっていた。生まれてはじめてみる”風葬”であった。
 仲田さんらが着いた島はミンダナオ島であったが、そこは原住民ばかりが住んでいたところで、日本人移民がいるダバオまで行かなければならない。そこで原住民集落を出て島づたいに舟を進めていくと、支那人が経営する店を見つけ、そこで米一俵を買い、またスペイン人の店では舟を買ってもらい、その代金でダバオ行きの船賃にあて、夢にまで見たダバオにたどりつくことができた。それは出発からなんと二十七日間の苦闘の連続だった。ちなみに、正規の移民船だと二日間で行ける距離であったという。
 そこには七千人の日本人移民がいたが、そのうちの三千人は沖縄出身者で金武、中城、小禄の人びとが多かった。以下、こんどはいわゆる”ベンゲット移民”の全容を紹介してみたい。

まず密林を開拓 麻栽培で地盤築く

 マニラ麻の主要産地として、世界にその名を轟かしたダバオは、フィリッピンの南端にあるミンダナオ島の東南に位し、その面積は七千四百八十六平方哩で、四国よりもやや広い。
 戦前ダバオには邦人が約三万人在留し、マニラ麻耕地や椰子園などの開拓事業や木材業、商業その他あらゆる産業を興して、ダバオの⚫︎⚫︎を期した。
 ダバオの開拓は明治三十七年頃にさかのぼる。すなわち、フィリッピンで唯一の避暑地であり、また夏の都として有名なバギオは、首都マニラの北方百七十哩離れたベンゲット州の高原⚫︎⚫︎にあるが西暦一九○○年、米人がバギオに通じる道路改修工事を、フィリッピン人や支那人を使って始めたがその中間には断崖絶壁の山岳が二十マイルも続き、ひじょうな難工事だった。そのため工事は一向に進まず、ついに完成の見通しさえつかなくなった。
 そこで、困った米人は日本からの労働者を募集し、この難工事を完成することを決意し、明治三十六年十月に第一回の日本人移民を募集続いて第二回、三回と移民を迎えて道路改修工事に当たらせた、これを俗に”ベンゲット移民”といいフィリッピンへの日本移民へのはじまりである。
 これまでほとんど不可能といわれた難工事も、日本移民の多学の困難と多大な犠牲を払って、とうとうこれを完成した。その功績は大いに讃えられ、日本人に真価を発揮したが、道路工事が終わると移民の中には、就職口がないためその日暮らしに明けくれ、蓄えも使い果たしてしまった。
 それを見るにみかねた故太田恭三郎氏や故大城孝蔵氏は、移民に職を与えるため寝食も忘れて東奔西走の結果、当時ダバオのダバンダイに麻耕地を持っていた、西洋人ホワン・アワド氏に交渉して彼らを雇用させた。大城孝蔵氏は自らその指導に当たり、彼ら百人をつれてダバオへ行った。
 彼らがダバオ開拓の先駆者であり、時は明治三十七年であった。
 当時のダバオはまったく名もない、いわゆる漁村で、海岸付近にニッパ葦の掘っ立小屋が数十軒、あちこちに点在しているにすぎなかった。海岸から一歩踏み入ると文字通り原始林であり、しかもそこにはバゴボやマタなどの部族がいた。その上、マラリヤの発生地でもあったため、フィリッピン人でさえこわがっているところであった。しかし、ダバオ開拓が始められて数十年経ち、ダバオには一万人に達する邦人が住んでいた大正六年ごろのことである。
 彼らもようやく土地の事情にも慣れ、貯えもできるに至って、自ら独立して麻栽培を志す者も出てきた。その時期をみはからい、太田恭三郎氏と大城孝蔵氏は共同で一九○七年太田興業会社を創立、バゴに土地を獲得して、いよいよジャングル開拓に着手した。これがダバオに於ける麻耕地の始まりである。フィリッピン人は、今日でもゴバ付近の地名を”ゴバオシロ(ゴバ大城)と呼んでいる。
 麻栽培の事業が将来有望だとの見通しがつくと、他の邦人もまた太田会社を習って、太田氏や大城氏の指導のもとで、農業会社を組織し公有地を借りて麻耕地の開拓を始める者がつぎつぎ現れ、その数は四十社に達した。
 一方、ダバオの事情が盛んに日本内地に伝わるや、各県からの移民も次第に増加し、戦争直前には在留邦人の数は約三万人(そのうち約七割が沖縄出身者)、そして毎月百人以上も出生児があり、これら二世の教育機関として、日本人会の経営する在外指定日本人小学十二校も設立され、日本人小学校はあたかも日本の一部のような⚫︎⚫︎与えていた。
 だが、ダバオ開拓事業は決してなまやさしいものではなかった
 例えば開墾の伐採作業中、誤って大木(柵木)の下敷となった者や、マラリヤにかかり高熱でうなっていても医師や薬がなかったため手当しようがなく、みすみす息を引き取る者などの悲劇が絶えなかった。
 しかし、邦人はいかなる困難にも屈せず、ただ開拓事業にまい進した。その結果マニラ麻の生産は年々増進し、そのうちに麻の値もよくなってダバオが景気ずくと、いままでこわがっていたフィリッピン人も、ポポール島やセブ島はもちろん、遠くルソン島など各地から労働者がダバオを目指して⚫︎の如く移入してきた。これを幸いに日本人の事業は、フィリッピン人が進んで提供する労働力を利用して、ますます拡張し、たちまち目ざましい大発展をとげたのであるダバオの人口も、また事業発展とともにいちじるしく増加、昔の痕跡もなく、ダバオは次第に市街地を形成するに至った。
 一九二二年には、ダバオに市政が施行され、また大正十五年(一九二六年)一月一日からは開港場となり、諸外国の船舶がひんぱんに出入りすることなった。そしてダバオはフィリッピンにおける第三の貿易港となったのである。これはもちろん、邦人移民の偉大なる功績といえよう。
 ダバオ邦人の貢献は、単に開拓事業に止まらず、さらに麻挽機械の改良、通路の改修、フィリッピン人の雇用、病院の開設、日本商品の誘致など、フィリッピンのために尽くしたことは大である。そのため日本人はフィリッピン人からマモ(主人)と呼ばれ、つねに尊敬されていた。
 ところが、昭和十六年十二月八日、はからずも大東亜戦争が勃発という一大異変で、たちまち平和の夢は破られ、ダバオもまた戦闘地域と化して、多くの邦人は作戦勤務にかり出され、麻栽培などの平和事業は、放棄するの止むなきに至った。
 戦況がしだいに逼迫して、いよいよ米軍がダバオに進攻してくると、ダバオの在留邦人は老幼男女の別なく、全員戦闘に協力参加し言語に絶する労苦をなめた。三⚫︎数千人の在留同胞が敵弾にたおれ悲惨な死を遂げた。
 ダバオを安住の地と定めていた在留邦人は、楽園から送還され、あらゆる財産を放棄して、裸一貫でそれぞれの郷里に引き揚げてきたのである。(写真・文とも「ダバオの思い出」(上原仁太郎元比島ダバオ日本人会長)を参考にしました)

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