手紙2_宮田から本藤へ
本藤さん
最後に直接お会いしたのは昨年10月の「螺旋の映像祭」当日だったでしょうか。SNSや逗子アートフェスティバルのオンラインミーティングではよくやり取りしているので半年以上お会いしていない実感がありませんが…
薫風の候、「そろそろアートフェスの準備を本格化せねば」などと思う今日この頃であります。コロナウィルスの状況は昨年に比べて改善するばかりか深刻化してきているようにも思えますが、いかなる世の中であっても表現したい欲求が燃え尽きることはないので、今年も頑張りましょう。
・そもそも芸術って…?
さて、前回の書簡を拝読し、本藤さんは「芸術であるか否か」という観点以前に、純粋に僕と「創造」「表現」をしたいと意思表示してくださいました。
創造されたものが結果的にこの世界の誰かにとって「芸術」になっていればそれで良かろう、と。
僕自身は、これまで「習い事」としてピアノ、ソルフェージュ、和声などは学習してきましたが、アカデミックに芸術というものを学んだ経歴が無いため、「芸術とは何か」とか「芸術的な表現とそうでないものの境界」が未だに釈然としていないのが正直なところです。
今までリリースしてきた音楽作品然り、アートフェスでの展示然り、自分の創造したものが芸術になっているか否かの判断は受け手に委ねてしまっていました。
少し話は逸れますが、僕自身が作品を創作する上で、所謂「カッコつけ」だけは絶対に出来ないというポリシーがあるんですね。
だから、仕事として制作を引き受ける場合を除いて「こうすれば受けるだろう」みたいな打算も出来なくて、自分自身の表現のはずなのにカッコつけてしまうと純度が薄れてしまう気がして、そうなってしまったらもう「自分」のことを表した作品とは言えないだろう、と。
ただ、螺旋の映像祭や逗子アートフィルムに携わっている作家さんはやはり芸術を専門的に学ばれた方が多く、そこに参画するとなると昨年は僕も少し肩肘張っていた部分があったかもしれません。
昨年のパフォーマンスについて、多くの方から「尖っていた」と評されたのは意外ではありました。多少肩肘張ったとはいえ、あの場で自分たちなりにやりたいことをやってみた結果が尖っていたのだとしたら光栄ですし、そう感じた方々にとって、きっとあれは「芸術」になっていたのでしょう。
しかし、やはり周りのメンツがメンツだっただけに少々気合を入れてしまった感じは否めない部分があって、そういった蟠りを取り払って本藤さんと純真無垢な表現を追求したらどうなっていたか。
本当の「尖」はあれくらいのものではなかろう、と(笑)
本藤さんの方から純粋に「Creation」したいと言って頂けると少し肩の荷が降りるというか自由になった気がしています。
そんなことを考える僕は、愚直に表現と向き合っていると言って良いのでしょうか…?
・ローカルであるということ
また、コロナ禍で都内での活動はおろか県境を跨ぐことさえままならない日々が続く中、自分が今住んでいる地元を見つめ直したい、とも綴られていましたね。
今までの世の中は、「グローバル」という言葉を過剰信仰していたと思います。
もちろん、リモートなら海外との対話は出来ますし、国際的な視点を持つこと自体は決して悪いことではありませんが、こんなご時世だからこそ地域に根ざして自分達に出来ることを模索しても良いはずで、ローカルであることは全くもってダサいことではないでしょう。
僕自身を振り返っても、数年前までの音楽活動はローカルというものを全く意識しておらず、レコードレーベルなどにデモを送って都心のタワーレコード等に作品を置いてもらったり、ヨーロッパなど海外からもCDを出したり企画に参加したりと、ローカルというよりはグローバル志向で色々とやっていたと思います。
しかし、アンビエントや電子音響系のアーティストに広く該当するでしょうが、もはやタワレコで展開したからといって一概にセールスを期待できるご時世ではありません。配信が主体となった今、そもそもCDが売れないですからね…。M3などの同人音楽系の即売会で出した方がよほど売れるくらいです。
そんな時代変化を受けて、タワレコの電子音響系の販売スペースは縮小の一途を辿らざるを得ず、今までの活動の仕方に自分自身が辟易してしまい…。そこで出会ったのが逗子アートフェスティバルだったわけです。
2019年に逗子アートフェスに参画した時点で、ローカルに根ざしたい気持ちは芽生えていたのですが、昨年からのコロナ禍でその思いはますます確実なものとなってきています。
地産地消型の人になっても良いと思っているくらいです。
芸術を一旦置いて「表現」するという意思、「地元を見つめ直す」という前提が本藤さんと大きくずれていなかったのは安心しました(笑)
・課題の回答と、僕からの課題について
その上で、課題に対する回答に入りたいと思います。写真からの印象を、僕自身が思う逗子という街の見方も交えつつ書き綴ってみます。(本当は音で綴っても良かったのですが時間を確保出来ず…)
自分の生まれ育った逗子という街の風景を気の赴くままに撮影されたのだと思いますが、非常に本藤さんらしい観点というか、本藤さんの思う「逗子」とはこういうことなのか、と思わせるものがあります。僕は東京出身ですが、仮に生まれも育ちも逗子だったとして、こうした風景に心惹かれる感性を自分は持つことが出来ていただろうか…。
本藤さんは、逗子という街に漂う「哀愁」にカメラのレンズを向けているのだと思います。
哀愁と言うと出身者の皆さんには怒られそうですが、決してネガティブな印象を持っているわけではないんですね。
僕は海や山が身近にあった環境で長年過ごしていなかったので、逗子と聞くと「海と山に囲われた、のんびりしていて程よく田舎な街」というイメージが未だに先行している部分があります。
とにかく自然や喫茶店が好きなので自分が逗子に行く際には、逗子海岸やカフェ・飲食店での写真ばかり撮っています。
本藤さんの場合は、逗子のこうした「陽」の部分ではなく、少し物哀しい部分を記録したいという欲求が潜在的に働いているのでしょうか。
逗子は、お隣の鎌倉のように観光地化されているわけではなく、大船のように都会化が進んでいるわけでもなく、「THE 湘南」みたいなキラキラしたイメージともちょっと違くて、マイペースな雰囲気の漂う程良く田舎の街だと思っています。そして、それ故にここにしかない良い意味での「哀愁」を帯びていて、本藤さんはそこにレンズを向けたくなっているのではないか、と。
とても感覚的で言葉で説明するのは難しいのですけどね。
僕からの課題、というよりも単純に訊いてみたいことがあるので、それを教えてもらえたらと思います。
本藤さんを「表現」という行為に突き動かす原動力は何なのでしょうか。
以前の書簡で、本藤さんが写真を撮る理由として「自分の目に映るものが疑わしい」と書いていたと思いますが、記憶の限りで最初にそう思った時期はいつだったのか、きっかけはあったのか。
芸術を志し、写真のみならず、音楽、インスタレーションなど様々な形で表現をされてきた中で、本藤さん自身をここまで駆り立ててきたものの正体は何だったと思いますか?
いきなり本質的な問いで恐縮ですが、お互いそこを見つめ直してみる事で、芸術以前に本来自分がやりたかった表現を掴むことが出来そうな気がしています。
もちろん僕もこの書簡にてお答えしますが、長くなりそうなので次回に回させてください(笑)
それでは、お返事お待ちしております。
2021年5月20日 Ryosuke Miyata