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ハイド氏VSフレべやでまってる!氏から「まさとさま戦法」VS「放置」を《超義務》でみてみる【スプラトゥーン3】


参考図書

総文字数12900ほど。
有料部分は10072文字である。
「超義務」とは何のことだろうか?以降は有料なので、
このNOTEから更に考えるための本を最初に紹介する。私ズンダの目的は本を売ることにもあるし、更に議論ができる人間を増やしたいからである。


はじめに

何が起こっているのか


お久しぶりです。ズンダです。

今回はスプラ界隈を騒然とさせた「0キル(サポートキルが1)18デスもみじ」使いとして有名な「フレべやでまってる!」氏(以下、フレベヤと表記)とその試合で放置したことで晒されてしまった「ハイド」氏について語ろうと思います。

「ハイド」VS「フレベヤ」でお互いが主張をしあい、それに付随するかたちで多くの人々が反応しています。

そこから話が進み、フレベヤがまさとさま戦法を真似したために「まさとさま戦法はよいのかわるいのか?」という議論に発展しています。

※厳密に言えばフレベヤ氏の戦法は「まさとさま戦法」ではないが、その方向性や精神性は同じであるため、ハイド氏の放置が問題視されて以降、「まさとさま戦法」の長短ちょうたんが語られ、侃々諤々かんかんがくがく、あるいは蛙鳴蟬噪あめいせんそうなやりとりが丁々発止ちょうちょうはっしと繰り広げられています。

この記事では、倫理学の考えである超義務ちょうぎむを用いてこの問題を論じていこうと思います。

なお、これ以降は敬称は略、そして「である体」で書きます。


まさとさま戦法とは?


まず、フレベヤがどうしてこんな陰惨きわまりないリザルトになったのかをみていこう。

彼はスプラトゥーン2において編み出された戦法「まさとさま戦法」に則ってゲームをしていた。

この戦法の名は「まさとさま」という人物によって考案されたがゆえに、「まさとさま戦法」と呼ばれている。

やり方としてはパラシェルターという武器に復活短縮をつけ、ヤグラにひたすら乗る。自分がキルをとると復短の効果が発生しなくなるのでなるべくキルをとらない。他の三人の味方はヤグラに乗る仕事を完全にパラシェルターにまかせ、敵と戦うことに集中する。

私ズンダもスプラ2において、ガチヤグラでウデマエXへいけなかったときにこの戦法を勧められたことがある。

その頃、真似してみたが思ったように味方が動かず、安定して勝つことはできなかった。おそらく何かが足らなかったのだろう。一考してみると簡単に真似できそうな戦法であるが、どんな戦法もその人の理解や伎倆によって変わる。

パラシェルターではなく、モミジを使っているフレベヤがこのまさとさま戦法をどれだけ忠実に再現できているのかこれはまさとさま本人にしかわからない。

戦法は方針を明らかにすることはできても、誰かに真似されればその中身は真似した人間によってやや変わっていってしまうものである。

その人の個人性がある以上、これは逃れられない。
いわば「センス」である。

これに関してはズンダブログの『センスの哲学』を。

勝利しようとしているフレベヤか、好きな武器をもちたいだけの人か

人まねはどこまでいってもエピゴーネンであるが、青は藍より出でて藍より青しということもありえる。

フレベヤのヤグラXPは2800近辺という。高いXPである。殆どの人はまさとさま戦法を使おうが他のことをやろうが、ここまでいける人は一握りであろう。もともとフレベヤはこの戦法以外でも高XPだったという話もある。

彼がこの戦法でこのような結果を残している以上、それ自体を否定することはできない。

誰でも今の自分ができるやり方で勝利するしかないからである。

それは自分の可能性を潰すかもしれないが、しかし、人はすべての選択肢を常にもっているわけではないし、選べるわけでもない。その点において不自由なのが人間である。

※私ズンダには勝てているのであれば特に問題はないようにおもえる。勝てない方が問題だと思うからだ。よって次の試合に勝つための「放置」という選択も私は肯定的である。ただしこの「放置」による勝利は未来型とでもいうべき別の要素があるが、今回は詳述しない。
私が最も嫌いなのは「自分が、好きな武器だから、楽しみたいからという理由で弱い武器を持ってきた人間」なのである。この場合だと勝つことを考えてない。味方三人にとって「まさとさま戦法」をとる人間よりも、よほどに害悪である。これは私に功利主義的な部分があるからだといえる。では、放置は功利主義的か?といわれると考えようはある。

ハイドは放置を選んだ—まさとさま戦法に嫌悪感をもつ人々—


とはいっても、今回の顚末をみればわかるよう、ハイドはフレベヤのプレイに怒髪天を衝き、放置という選択をとった。フレベヤの戦法は否定された。

彼がいうにはフレベヤの戦い方は「利敵行為」にしかみえなかったというのである。

実際、スプラトゥーンにおいて「0キル18デス」はやろうと思わなければ
なかなか達成できないリザルトである。

普通にこのゲームをやっていると、悪くても数キルはとれるし、デス数も武器にはよるが一桁かもしくは10ちょっとである。ただし私は、普通にプレイしていて0キルをとったことが実は何度もある。

ここまでいくとリザルトでフレベヤの動きがわかるというよりも、試合中にその凄惨さは理解されてしまうだろう。
18デスというのはそのぐらいデスしている状態だからである。

やる気が衰えたり、利敵行為だと思い放置してもしょうがないような気はする。

フレベヤは結果を出している以上、彼にとってはもちろん、味方になった人にも勝利を得ているということになる。この結果だけをみれば特に問題はない。

しかし、フレベヤはハイドに放置されてしまった。フレベヤのまさとさま戦法は拒否されたのである。


まさとさま戦法ができてから数年、この戦法に対する嫌悪をあらわにする人々はTwitterをみればいくらでもでてくる。

この戦法を拒否する理由とはなんなのだろうか?
それを考えていこう。

まさとさま戦法とは「○○主義」である

スプラ界隈におけるハイドとフレベヤとのやりとり、あるいはそれに付するTwitter上の返信などをみると、まさとさま戦法の是非について語られている。

・これでXPが高いのだからいいではないか?
・まさとさま戦法をやっている人間よりもXPが低い人間はこの戦法をバカにできるのか?
・まさとさま戦法は味方負担が大きくなる
・利敵行為とかわらないのでは?



といったやりとりがされている。
どの意見も個人の考えや能力や交友関係などが反映されているので
「正しい」かどうかの判断はしづらい。

私ズンダからすると、どれも「正しい」ように思える。
フレベヤにかぎらず、まさとさま戦法によってXPが上がった人がいるのも事実だし、その戦法が利敵行為のように思えるのも事実だからである。

お互いの「正しさ」がぶつかりあう状態になっている。


まさとさま戦法や放置のような行為はどうやら人々に倫理的な問いを与えるようだ。

それゆえ、我々はフレベヤとハイドにジレンマを覚え、それぞれの人々は激しく罵り合っている。

だが、これらの議論は私からすると肯綮にあたっていないようにおもえる。
はっきりいうが、お互いの好みをいっているだけにすぎず、物足りない。

では、まさとさま戦法とは何か!?

倫理学の観点からすれば、

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