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『ガンダムSEEDデスティニー』のシン・アスカと『テイルズオブ ジ アビス』のルーク・フォン・ファブレはどう叩かれていたか?「弱者叩き」と「自己責任論」同時代の記憶から


ガンダムSEEDの映画化で思い出したこと

シン・アスカとルーク・フォン・ファブレの記憶


ガンダムといえば名前ぐらいなら誰でもきいたことがあるだろうが、
その作品の一つ『ガンダムSEED』が映画化が決定し、今月には公開されるとのことで2004年から2005年の時のことを思い出したのでかいてみたくなった。「社会反映論」な部分があるのでご容赦願いたい。

私がかいておきたいのは『ガンダムSEED DESTINY』のシン・アスカと『テイルズオブジアビス』のルークについてである。

アマプラでアニメはみられる


なお、両作品ともAmazonプライムでアニメをみることができるので興味をもった方はみてもらいたい。特に『テイルズオブジアビス』は原作のゲームがPS2と3DSでしかできない。現行のハードではプレイ不可能なので、アニメをみるしかない。


↓全編みられる

↓映画化にあわせて編集された。これでみた方がはやいかもしれない。


主人公二人はなぜ叩かれていたのか?


『ガンダムSEED』の続編である『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(以降、デスティニーと略す)が地上派で放送されたのは2004年のことだった。

この後、ナムコの『テイルズオブ ジ アビス』(以下、アビスと略す)が2005年に発売された。

私はデスティニーもアビスも即時に経験しており、この二作品の主役を務めたシン・アスカとルーク・フォン・ファブレが当時どのように「叩かれていた」かを知っている。デスティニーに関してはそもそも作品全体が不人気であった。

主人公なのに「叩かれていた?」と思われるかもしれないが、そうであるとしかいえない。


というのもこの二人は主人公の属性として大きな欠陥があった。

私ズンダが考えるその欠陥とは、


①哲学者、スーザン・ウルフがいう「道徳的聖者」から
彼らが遠く離れたところにあるということ
②ドイツ由来の「教養小説・成長小説(Bildungsroman)」に反するものだということ

デスティニーと被害者

まず、デスティニーについてみることにしよう。

この作の主人公はシン・アスカといい、妹を前作の主人公キラ・ヤマトに殺され怨みに思っているという設定であった。

「あった」というのは回が進むと、どうやら妹を殺したのは別のパイロットによるもので実はキラではなかったと描写されるようになるからだ。

ここにシナリオ変更をみるか、それともシンの記憶違いであったと考えるかはその人の性格による。メタ的にみるのが好きな人は前者を、純朴な視聴者は後者を選ぶかもしれない。

どちらにせよ戦場における流れ弾があたり無辜の民の一人が死んだと考えれば責任は「戦争そのもの」にあるといえる。

ただそれが、シンにとっては血の関係にある妹だったということだ。
彼個人にとり、それは大きな《意味》をもつ。

東日本大震災後のビートたけしの発言一1人の人間の死ー

今年の1月1日に地震があった。
多くの人がなくなった。今から13年前には東日本大震災があった。
更に多くの人たちがなくなった。

その地震の3年後、今も健在の芸人・ビートたけしが次のようにいった。

「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。
しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。
悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。
 オイラたち芸人にできることがあるとすれば、震災が落ち着いてからだね。
悲しみを乗り越えてこれから立ち上がろうって時に、「笑い」が役に立つかもしれない。
早く、そんな日がくればいいね。
常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。
今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。
テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。
だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、
被害者のことをまったく理解できないんだよ。
じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、
そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。
人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。
そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

ビートたけしが震災直後に語った「悲しみの本質と被害の重み」より


我々はなくなった数万、数十万の人たちを具体的にみることはできない。
彼がどんな人生を送ってきたのか、誰と付き合い、誰と結婚し、子供は何人いるのか。
そんなことすらも分からない。

数だけみると、一人の人間の人生はうすっぺらくなる。
私は「ケアの倫理」は嫌いだが、
おそらくこういったことへの反省が「ケアの倫理」の価値なのだろう。
一人一人について真面目に考えること。それなくしては災害も戦争も
それどころかあらゆる事件や事故ですら、私たちは親身に考えることをやめて思考放棄に走るだろう。

もはや人間ではなくなり、出来事に反射的に反応するだけの
動物になってしまう。

しかし、その個人の人生を抹消してしまうかのように
天変地異や戦争は多くの人々を分け隔てなく公平に殺す。
自然災害には当然、悪意はない。だが戦争も悪意なく殺害してしまう場合がある。

こういう戦争に巻き込まれて損害を被ることを
付帯的損害、巻きぞえ被害(collateral damage)という。

シン・アスカの妹も、結局は「それ」で死んだ人だった。

よってその死は殉死でもなく叙位・叙勲が与えられるわけもなく
幾万の死者と呼ばれる一人に過ぎない。

だが、先にも書いたようにシン・アスカにとっては「妹の死」である。

人気があるキャラクターは余裕のある強い人 五条悟

ここまで長くなってしまったが、
私がこのデスティニーをみていたときシンという主人公は
ひたすらバカにされていた。2chにあった「シン・アスカスレ」のようなところでは流石に彼は庇護されていたが、実況板や本スレなどでは
「活躍してない」「しつこすぎる」「個人のことしか考えてない」
などという批判があったことを覚えている。

前作の主人公キラ・ヤマトも相当に叩かれていた記憶があるが
彼の場合は熱心な女性ファンのようなものがおり、盲目的なファンによって
曲庇されていた。だがシンにはそういうのはいなかった。

だいたいアニメなどで人気のあるキャラクターというのは
現代の人気漫画『呪術廻戦』の五条悟のように他を圧倒するほど強くて余裕のあるキャラである。

特に女性は強い男性に惹かれる生き物なので

―おそらくこの言い方に過敏に反応する人もいるだろうが、しかし弱者男性として生きている私は、その過敏は誤りだと断言したい―

キラにはファンがいるが
シンのように直情的で過去に囚われ、余裕がなく、キラほどの戦果を挙げることができない人物は人気がでないのである。

シン・アスカとイデオロギー

実は私はこのシン・アスカが好きであった。
「平和」といっては戦場を荒らしまくったり、教祖のような女、ラクス・クラインの恋人としてふるまうキラと比べて、陰にいるシンは一種の反権力、カウンター・カルチャーのようにみえて魅力的だった。

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