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読書メモ「参加型パラダイムは学生の自由を促進するか?」(井上義和)

目次
1 学習を「自由」の観点から捉え直す
2 「能動的な学修」を促す参加型パラダイム
3 放任が自由を奪う:過渡期のジレンマ
4 設計的な自由へ:自由を促進するためのデザイン
5 誰が学生の自由を保障するのか?

学習環境において、自由を制約するのは、外部から強制してくる他者とは限らない。他からの強制がなくても自らの可動域を狭めるよう振舞ってしまう、そのような環境条件にこそ注意を向けたい(p.133)

現場で教育を成り立たせるためには、授業への積極的な参加を求めたり、宿題や小テストを課したりして、「能動的な学修」の穴をとにかく埋め合わせなければならない。この動きは、高等教育大衆化の波をまっさきにかぶった教育困難な大学から、順次、進行してきた。実際、まだアクティブ・ラーニングという言葉が普及していない2000年前後から、必ずしも教育(方法)学の専門家ではない個別の教師たちによって、「能動的な学修」を促すような授業実践——本章でいう参加型パラダイム——が模索され、事例報告が蓄積されていく(p.136)

「能動的な学修」の全工程が精密に設計され厳格に管理されると、学習行動はますますその枠組みに最適化され、無駄の多い、手当たり次第の試行作がなどは回避されるようになる(中略)学生たちが求めるものも、もはやかつての放任的な自由ではなく、教師によって適切に管理された自由である。彼らにとっては、そもそも放任的な自由なるものは、端的に「教師の怠惰」「指導の放棄」と映るだろう(p.137)

「能動的な学修」の観点から重要なのは、豊富なフリー素材を目の前にしながら、コピペを禁欲しつつ、能動的に振る舞う——自分の頭を使って創意工夫する——ことの難しさである(p.139)

前出の「質的転換」答申の引用の中でも、アクティブ・ラーニングの有効な方法として「教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等」が挙げられており、いずれも学生の積極的な授業参加を促す活動である。では教室内でのコミュニケーション機会の増加は学生たちを自由にしただろうか(p.139)

試しに「グループワーク 苦手」などでネット検索してみてほしい(中略)大学生活や就職活動のなかで最も緊張と不安を強いられる場面として(中略)グループワークが取り上げられ、地獄のような体験談や同じ境遇の後輩への助言などがたくさん出てくる(p.140)

専門課程で行う小集団での演習や研究室での調査・実験などは以前からあったが、これを「グループワーク」と呼ぶことはない。そこでは安定した人間関係がベースにあり共同作業の目的は明確だから、個人の属性としての「コミュ力」はもちろん、具体的な文脈と切り離された「コミュニケーション」なる観念さえも希薄だった(p.140)

ファシリテーターにとって、コミュニケーションが個人の能力(コミュ力)ではなく「人々の間や場や文脈に埋め込まれている」ことは前提である。だから彼らが働きかけるのも前者ではなく後者である。ファシリテーターの本来の役割は(中略)全体を特定方向に誘導するという意味での支配・制御ではなく、安心と安全が確保された「場の保持」とされている(p.143)。

(中野(2003)の引用後)言い換えれば、ファシリテーターは、参加者がその可能性を存分に発揮するのを阻害する要因があれば、積極的に場に介入してそれを除去する、ということである(p.143)

コミュ力格差による抑圧的なグループワークのように、かえって学生が自らの可動域を狭めるように振舞ってしまう(放任が自由を奪う!)したがって、それらの手法を導入する際には、自分の頭を使わないとできない論題設計や、安心安全な場を保持するファシリテーションなど、繊細な配慮と修道な準備が必要になる(p.144)

感想
・本章は、学生の自由の中で「試行錯誤と創意工夫の機会」に焦点を当てている。参加型パラダイムによる介入は、学生の自由を促進するために行われるが、その狙いに反してかえって可動域を狭めている。言い換えれば、試行錯誤と創意工夫の機会を剥奪している可能性があるかもしれない。参加型パラダイムによって管理された「能動的な学修」では、その能動性の選択肢が準備されているとも言えるが、その選択肢の提示は「試行錯誤と創意工夫の機会」と言えるかは怪しい。
・学生の視点から言えばグループワークは「最も緊張と不安を強いられる場面(p.140)」だが、その学習者の課題を解決するための方法論は先行研究で焦点をあまり当てられていない気がする。例えば、自己紹介をするとか毎回同じグループにするとか、そういった工夫をすればOKとみなされていることが多いように思う。教員は学習目標に到達するためだけではなく、学習者たちにとっての地獄を回避するための、学習者の課題に寄り添ったグループワークの支援を行うべきであると思う。
・ファシリテーターや教員は「参加者がその可能性を存分に発揮するのを阻害する要因があれば、積極的に場に介入してそれを除去する(p.143)」役割を担うとあるが、(1)ベテランはいかに介入の判断をするのか、また、(2)ファシリテーターの介入の判断材料にしている現象は本当に介入するのが適切か(例えば、雑談、沈黙などは教員からして介入の対象でも、学習者からすればグループワークを組み立てるための方法である可能性も考えられる)

井上義和(2022)参加型パラダイムは学生の自由を促進するか? 放任が自由を奪う時代に自由を設計するために.(pp.131-146) 崎山直樹, 二宮祐, 渡邉浩一(編)現場の大学論 大学改革を越えて未来を開くために, pp.131-146. ナカニシヤ出版, 京都


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