ルールって増えるけど、減らなくない?
これはわたしの妄想だけれど、たとえば
「海辺で深夜に花火をしている若者がいる。うるさくて迷惑だからどうにかしてほしい。」
という苦情が、どこかの機関に入るとする。
「では、海岸に花火禁止の縦看板を立てます。」
となる。
夜の海辺は静かになるかもしれないし、
縦看板は無視されるかもしれないが、
こうしてまた、町にひとつルールが増えた。
隣町でも同じような苦情が入った。
「あっちの町は、看板立てたみたいですよ」
そしてまた、町にルールが増える。
電車に乗っている時は、通話をしてはいけない、
というマナーがあると私は思っているのだが、
どうだろう。
電車内で通話はやめましょう、
周りの人の迷惑になります。
小さな頃からそう教えられた。
そうなんだな、と思っていた。
でも最近ふと思った。え、ほんとに?と。
電車で小さな声で気を使いながら、
「すみません、電車遅れちゃってて、はい。なので少し遅れます。はい、すみません。車内なので切ります…すみません」
言っている人を見て、
あ、車内で電話してる。マナー違反だな。
と思うことはある。
私は車内で通話している人に迷惑をかけられたことはない。たとえそれが、マナーを全く気にしていない人が友達と日常会話を繰り広げていたとしてもだ。
マナー違反だなという軽い憤りはあるが、
それはマナー違反だからであり、行為そのものではない。
人間は成り立たない会話の話し声のほうが、成り立っている会話が聞こえるよりイライラする(だったかな?)という話は聞いたことがある。
とにかく、電話している人の声は、
会話を聞くよりもイライラするというのはあるらしい。
このマナーはどのようにして生まれたのか、
また妄想。
「車内で、通話している人がいて、イライラするんです。」
「そういう人多いですね。車内は通話しないように貼り紙しておきます。」
こうなると、貼り紙を見た人は、
車内での通話は禁止なのだと知り、
通話をしている人が見たとき、
あ、いけないんだ。
と思う。
ここには、きっと車内での通話を聞いても
イライラしない人々もいただろうが、
通話しないのがルール、マナーだと知っていると、
きっと、マナー違反をしている人をみて
イラッとしてしまうのではないだろうか。
そして、緊急で電話している人にまで
その目線を向けてしまう。
私みたいに。
そして本来イライラしないことなのに、
イライラしてしまっていたのか。
無駄じゃん。
ルールやマナーについて、
そう決まっているからだけで暮らしていると
私は頭の硬いやつになってしまう。
ちゃんと自分の頭で、そのルールについて考えよう。
ときには臨機応変も必要だ。
自分で言うのも何なんだけど、私はまじめだ。
ルールを破れないのだ。時間も厳守。
でもこの真面目さはきっと、
何も考えない
というところから来ていた節があると気づいた。
自分が間違っている可能性なんて考えてもみなかった。
だってルール破るの駄目って教わったし。
ルールについて私は何も考えていなかった。
ルールは守るもの。それだけだったのだ。
考えることで、少し自由になれるかも。
社会には法律、条例にはじまって、ルール、マナー、暗黙の了解にいたるまで、さまざまな決まりごとかある。
それは、きっと増え続ける。
減ること、変わることもあるだろうが、
増える速さには追いつけない気がする。
そうなると、人間社会が続けば続くほど
不自由になったりして…
ルールを作る機関を作ったなら、
ルールを壊す機関もないと、
とんでもなく不自由になるのではと思ったり。
最近、花火が出来る場所って見つからないよね。