「誰かにとっては君が立ち止まって見えても 君の中ではきっと高い壁を登ってる」
これは2024年の総まとめ記事。
……になる予定。
2024年イチのドラマだったんじゃないかと個人的に思っている「放課後カルテ」。その主題歌だったwacciさんの「どんな小さな」の冒頭の歌詞を、タイトルに拝借しました。
先月から今月にかけて複数回、大学の教壇で自分の体験談をお話しさせてもらう機会がありました。その時に、過去には出てきた記憶がないのに今年は何度も出てきた学生からの質問がありました。
「あがり症をどうやって克服したんですか?」
答えとしては「大学に入学してから4年間の教職課程で嫌というほど教壇に立たされ模擬授業もさせられているうちに何とかなるようになってきた。あと模試の試験監督のバイトで試験中も無言のまま人前(主に教壇)にいるという経験も慣れるのに役立った」なのですが、この過程の中で自分の内面においては相当な努力?葛藤?がありました。
人前に出ることの何が怖いのか、をまずは自分でひたすら見つめて「声が聞こえないと言われること」「自分の容姿が嫌だからそれを人前に晒して人々のお目汚しをするのが嫌」などという具体的な理由を見つけ、まずは漠然とした“怖い”を小さくするところから。そして“怖い”の原因そのものを小さくするために、発声練習を試みたり、自分の中にある認知の歪みと向き合ったりしました。
なお、ここで言う認知の歪みというのは、自分の内面や容姿への過小評価のことです。自分では理論的に結論づけているつもりの自己評価も、実は本当に他人から見たときには「そんな些末なことは気にしていない」「大した問題ではない」「自分が嫌だと思っている部分をむしろ好いてくれている」ことが案外ありました。これに気づくというのは、今までの自分の評価軸を覆すことになるので不安感も募り、勇気が要ります。
でも認知の歪みを何とかしないと、自信を持って発声することも出来ないんです。発声練習に関してはただ声を張る練習というよりかは、自信を持って発声する練習。なんなら自信を持っている風を装って発声する練習というところも意識していました。ひとまず、歌う時は別人のように声を張れていたので、歌声を出しながら声の出し方を維持して地声に少しずつスライドさせてみたり。歌をより自信を持って歌えるようになって、まずは歌う時に人前で堂々と振る舞えるようにしてみたり。
文字数にしてなかなかの分量で語っていても、この裏にさらにもっと細かな葛藤や努力があります。でも傍から見たら、すごく低レベルなクオリティで、授業内のスピーチやら模擬授業やらをこなしている自覚はありました。他の人にはハードルにもならないものが、自分にはとても大きなハードルになっていて、軽々と先に行くみんなを遠くに眺めながら乗り越えなければならない。そんな感覚が常にありました。
そうやってもがき始めたところから10年。今年の終わりになって、その様をひょいと掬い上げてくれたのが、タイトルにした歌詞でした。
「誰かにとっては君が立ち止まって見えても 君の中ではきっと高い壁を登ってる」
たくさんの人の“弱さ”を掬って、救ってくれる歌詞だと思います。
さて、noteから2024年の記録のお知らせが来ました。
よく読まれている記事は全て2024年より前に書いたもの。今年書いた記事はどこへ?という気はしなくもないですが、ずっと読んでもらえている記事があるのはありがたいですね。
とはいえコツコツと月1回以上の記事投稿は続けてこられて、この記事で連続25ヶ月投稿になります。今年の記事の話題を振り返ってみても、今年1年は(今年1年も?)変化に富んだ年だったと感じます。
第一に、子どもとともに初めて丸1年を過ごしました。休職からの復職も、会社の中で異動を経験するのも初めて。もちろん子どもができているから、保育園を探して入園させ、親らしく先生とやり取りしたり、仕事と家庭と2つの時間軸で動いたりというのも初めて。仕事面でいえば、異動して新人教習とは全く違うスピード感で新たな路線を覚え、新たな人間関係を築き、休職前とは違うスタンスで仕事に向き合うことも。
一人暮らしや相棒との二人暮らしの時分なら、自分の好きなように仕事とプライベートの時間配分をし、自分の好きに収入を使うことが出来ました。仕事を一丁前に頑張って、持ちつ持たれつの精神で残業を引き受けたりお休みをいただいたりの生活を送ることで、自分の社会の中での存在価値を感じていた節もあったかもしれません。
しかし今はそうはいきません。子どもの保育園の時間に合わせて勤務時間を配慮してもらい、平日はまるで相棒とリレーのように育児と仕事を交代で行います。仕事時間も制限されて配慮をしてもらうばかりの立場となり、プライベートも自分ひとりのペースで何か出来る時間は以前と比べればほとんどなくなりました。子どもが保育園にいて仕事のない時間の多くは家事の時間です。この生活では勤務時間が短くならざるを得ないので、給料も減ります。
仕事だけの面から見たら量的に半人前の働き。家事や育児の面だけで見たら、特に家事の面で相棒への負担が大きくなってしまいがちで上手く回せず。ひとつの面だけで見ると、戦力になれず成長も難しい人間という評価にならざるを得ないでしょう。少なくとも自分はそう考えてしまう人間なので、それで落ち込まないといったら嘘になります。でも実際のところは、両方の面を抱えるためにどうすれば上手くいくかは試行錯誤している日々。
「誰かにとっては君が立ち止まって見えても 君の中ではきっと高い壁を登ってる」
たぶん、今の自分の生活も、この歌詞の通りなんです。
noteの記事もこうした生活の反映だから、過去に華々しく人の目を集めた記事たちの閲覧数に迫る記事が生まれなかったのも自然なこと。
でもね、やっぱりこれなんです。
「誰かにとっては君が立ち止まって見えても 君の中ではきっと高い壁を登ってる」
記事のヒットの観点からは立ち止まって見えても、毎月1本は記事を書いてコツコツと力を溜めてきたはず。今年書いてきた記事は絶対にムダにはならないですからね。
2024年。こうした日々を乗り越えられたのは、本当に周囲の人に恵まれたことに尽きます。
職場では子どもの熱で突然休むことになっても、嫌な顔ひとつせず仕事を代わってくれる人達がいました。保育園入園前の子どもの遊び場を求めて子育て支援施設に出向いていたら、ただの子育て仲間という枠を超えて仲良くなれた人達がいます。そして、へっぽこすぎる家事育児能力を補うようにたくさん動いてくれ(すぎ)た相棒。まだまだこちらがお世話する一方だと思っていたのに、すでにお節介を焼いたりニコニコの笑顔で癒してくれたりする我が子。軽々しく行き来できる距離ではなくても程よく気にかけて見守ってくれている、自分と相棒の家族。
自分ももちろん頑張った1年だったけど、キャパを超えて動いたという感じはあまりなく、いかに周囲の人達に助けてもらったかを痛感しています。来年は今年の状態を維持して動けることが多いと思うので、この感謝を少しずつ返していきたいです。
年の瀬(あるいは三が日かその後か?)にこんな自語りを読んでくれた皆さんもありがとうございました。
皆さんにとっても良い2025年になりますように!