お察しの通り長女です。
この週末不要不急の外出は控えて下さい。
2020年3月27日東京都には、明日から二日間の外出自粛要請が出た。
「私の仕事、不要不急だ。」
そこからあれよあれよという間に約1ヶ月半休業自粛生活は始った。
5年も前なら、まさか私がエステサロンを始めるなんて思ってもいなかったね。
2015年、友人が急性骨髄性白血病を発症。
家は我が家の向かいで糸電話も出来る。週に8回は会うような家族のような関係だった。
自転車を漕ぐのが異様に早くいつも追いつけなかった。
彼女は大繁盛エステサロンの経営者で、資格をたくさん持ち、頭の回転が速く、有能な人だった。それでいて気取らず、下ネタとお酒が好きでいつも大勢に囲まれていた。友達思いで、いつも誰かの誕生日祝っていた。
絶望的に料理のセンスが無く、私の誕生日に恥ずかしそうにくれた手作りのケーキはフォークが刺さらないほど硬く、乗せた苺は小さくなって酸っぱい匂いがした。
「一緒にお店やろう!」
今思えば、病の渦中でそれを言えるのは生きる力が強い彼女らしい発想。病気が分かってしばらくしてから抗がん剤の合間に私に店のノウハウ、技術、全て教え始めた。
代わりに私が彼女の好物の燻製カレーを作った。彼女のすべてが大好きで、嫌いで、羨ましくて憧れた。
駅前の居酒屋で唐揚げランチを半分たべたところで
「病気になって初めて体の弱いあなたの気持ちが分かった。今までごめんね。」
と泣いた。もう私には彼女のいないこの先の自分の人生が想像できなかった。
開店日の目標を立てて、チラシを作り、名刺をつくり、店の名前を考えた。
抗癌剤の副作用で味覚障害が出た時は3食ミニストップのソフトクリームを食べに行った。
今までのお店は「超ダサい」名前だからお洒落な名前にしたい!というのが彼女の希望で、どれを選んでもあの名前よりはマシだと思った。
ポケモンを捕まえる為に深夜に都内を走り回った。おかげで未だに道に迷う事はない。
2度に渡る移植に耐えた。セカンドオピニオンもした。3度目の移植をしてくれる病院をさがした。
杖をついてまで月島のもんじゃを食べ歩き、上野でカニを買った。
豚肉を買うためだけに高円寺に行った。
通販の送料が勿体無いからと蔵前まで取りに行った。
チーズの卸売の特売に並んだ。明らかな病人に警備員さんが椅子を持ってきた。
どんなに痛みが強い時も、100g当たりの値段の計算が誰よりも早かった。どこまでも強欲でタフ&ワイルドだった。
彼女は抗がん剤で髪が抜け、私も坊主にして2016年私の誕生日にイタリアンを食べに行った。店を出てすぐに、暑くて我慢していたかつらをふたりで取り、お互いの頭を見てエレベーターの中でギャハハと笑った。
絶対に彼女が死ぬわけないと思った。
だけど2年半の闘病の末、2017年7月17日。彼女は旅立った。
私はその日その時間、ギョーザステーションという両国駅の幻のホームで餃子を焼くイベントに参加していて、お腹いっぱい餃子を食べ、よく冷えた瓶ビールを飲んで笑っていた。
2018年の初夏に彼女の家族から、もしまだ気持ちがあればお店の続きをやらないかと声をかけてもらい、タイミング良く物件が出たので即答した。
美容にそこまで興味がなかったのも良かったかもしれない。こだわり無く受け入れられたのでやって行けると思った。
彼女と多くの時間を過ごしたいが故に、実質2年半以上も学んだので自信もあった。
唯一、彼女の存在が近くに感じられる方法はこれしかないと思った。
現在こと2020年。学ぶのと実際に運営するのとでは大違いが当たり前で、てんやわんや毎日勉強の日々。一日になんども「マジか」「マジか」「ウケる」と心の中のギャルが言う。
彼女の声や顔は少しずつ思い出せなくなってきた。
いつからか私の物になった彼女の口癖と、私の中に住み着いた彼女の思想。
彼女は私の中に生きているのがわかる。
5月も末になり、緊急事態宣言が解除されたからといってウイルスは無くならない。どう考えても命と健康あっての美容。繁忙期になるはずの月に休業で、経営はまったくもって上手くいっていない。「私もお客様も嬉しい」が理想ですし、リモートワークなんて出来やしない。それでもこのお店と生きて行きたい。
ひとつだけ後悔している事は、坊主にしたときに、彼女の為だと伝えなかった事。この不器用さ、お察しの通り長女です。
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