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April, come she will

同じタイトルの音楽があるということを、本を読んで初めて知った。

川村元気『四月になれば彼女は』

映画を観に行った。予告編は暗記するくらい見た。これでもかとインスタグラムに流れてくる広告の動画を、毎回ちゃんと再生した。どうしてこんなに惹かれていたのかわからないけど、何ヶ月も前から見たいと思い続けた映画だった。

美しかった。佐藤健が演じた主人公の「藤代」も、森七菜による「春」も、写真で世界を切り取ろうとするひとたちで、彼らにはこんな風に世界が見えているのかもしれないと思った。あるいは、こんな風に見ていたい、と願っているのかもしれない。どの場面も光を帯びていた。朝日は遠くて、海はひかって、曇天は顔を顰めたくなるほどまぶしい。彼らはいつでも、光のほうを見ている。いつかなくしてしまった気持ちを、その先で探そうとしているかのように。

音楽が好きだった。長澤まさみが「弥生」役で、結婚式場を下見してオルガンを弾く。その音がまだ耳の奥に残っている。彼女の耳に自分の奏でる音はどう聞こえたのだろう、と想像せずにはいられない。エンドロールとともに流れる藤井風の曲も、それだけを映画館に聴きにいってもいい、と思えるくらいに好き。

川村元気のデビュー作『世界から猫が消えたなら』は、映画を見たとき、主人公と家族の関係が強調されていたように感じたほかは、小説とあまり違いを感じなかった(だいぶ前の記憶なので曖昧なところもあるが)ので、小説を読まずに観に行ってみた。

でも、今回は映画を観たからこそ、本が読みたくなった。あの表情の裏に、台詞の奥に何が潜んでいたか知りたくなった。それが果たして説明されているのかいないのか、というところから気になった。

小説は、映画とはだいぶ違っていた。重要な台詞は一致していたが、映画にはなかった登場人物が重要な役割をはたし、映画とは3人のメインキャラクターが背負っている過去が異なっていた。川村元気さんらしく、古い映画や音楽がたくさん登場した。『世界から猫が』でも登場した、タイトルのわからない道化師と少女の映画をいつか観たいと思った。昔の映画を好きなひとと一緒に観る夜に、憧れを抱かされたまま。

弥生が四月一日生まれなのになぜ弥生というのか、密かに気になっていたがそれはわからなかった。三月に生まれるつもりでつけられた名前かもしれないし、四月に生まれた彼女にその名前をつけた両親の頑迷さを示唆しているのかもしれない。

でも、タイトルの意味を知ったとき、わたしは本を読んで良かったと思った。曲名で検索をかけて、YouTubeで聴いた。穏やかだが、切なくなる曲だった。好きだと思う音楽はいつもわたしに、永遠などないということを教える。わたしはきっと、そのことを教えられたがっている。

いま、すごく大好きな場所で過ごせている、と最近、毎日のように思う。なんてしあわせなんだろう。働いているとき、踊っているとき、おすすめされた本に手を伸ばすとき、散りゆく桜を見ているとき、そう思う。

けれども、さよならが近づいている。わたしはそれら全部に、自分の意思で手を振って、海の向こうへ出ていく。それがとてもつらいということが、いましあわせだということから切り離せなくて、というかべたべたにくっついて剥がれなくって、どうしようもなく目を伏せて耐えている時間がある。わかっている。もっと前向きでいなきゃいけない。自分で選んだ道なんだから。行かなければ後悔すると、そのときは強く思っていたのだから。

来年は桜は見られない。ひとたびそう気づいてしまうと、桜がもう散りはじめているのが、あまりに早いと感じてしまう。秒速5センチメートルが桜の花びらの落ちる速さだと言った映画もあったが、それよりずっと速く速く、雪の降るように淡い色の花びらが舞っていた。

海の向こうへ行ったら、手紙を書きたい、と思った。映画でも本でも、春から藤代へ宛てた手紙が、大切な言葉を彼の心のなかに残した。翻って、文章でないと言えないことが、書かなければわからないことが、自分にはなぜこんなにも多いのだろう。出せるかはわからない。受け取ってくれるひとがいるのかはもっとわからない。でもここで綴る言葉とはちがう、宛先ひとりのためだけの言葉が、紙いっぱいに並んでいることを想像するだけで、温かいものが胸にひろがる。

おやすみなさい。

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