“宝塚歌劇依存脳”から 脱却せよ
中学、高校時代に演出助手や音響として付かせて頂いていた先生から、よくこんなお言葉を頂いていた。
「宝塚ばかりじゃなくて、色んなものを見ないと。とにかく視野を広く持たないとね。」
しかし当時の私はとても未熟で、(今もじゅうぶん未熟だけれど)宝塚を観て、きゃあきゃあと楽しむだけで満足し、宝塚を分かった気になっていた。
男役がなんであんなにかっこいいのか?を考えたことも無く、とりあえず「かっこいいからいいじゃん!」で思考停止し、娘役がなぜ「女」役ではなくて「娘」役なのかを考えたことも無く、とりあえず「可愛いからいいじゃん!」で思考停止していた。
大学生になって時間とお金に余裕が出来ると、ますます宝塚を追っかけるようになった。
好きなタカラジェンヌを追いかけ、その人のおかげで北九州での生活が楽しくなり、退団公演には兵庫と東京合わせて、計7回も通った。
めちゃくちゃ楽しかった。
キラキラして鮮やかな宝塚歌劇の世界。
ずっと前から大好きな、希望と夢を謳う宝塚歌劇の世界。
いつしか宝塚の演出家になりたいと願うようになり、私に色んな縁と救いをくれた宝塚歌劇。
ただ、夢中になりながらも思うことがあった。
「楽しむ」だけ、「夢中」になるだけ、で
私の夢は叶えられるだろうか、と。
宝塚歌劇の煌めきは本当に素晴らしい。
世界で唯一無二の、確立された様式美で彩られた世界は、本当に美しい。
だから私は、わずか9歳であの世界に夢中になった。
でも、その美しさはあまりにも私にとって都合が良くて心地よいもの過ぎて、いつしか私にその奥にあるものを考えさせないようにするものだった。
夢中になりすぎて、酔わされすぎて、「美しさ」の先にあるもの、それに触れないと向こう側には絶対行けないものを、探ろうとする気を奪われてしまっていた。
そんな折、北九州芸術劇場の企画に参加させて頂くことになった。
約20名の舞台に関心のある人達が集まり、特定のメンバーで各自脚本を書いて、その中から選んだ作品を上演するというものだった。
脚本を書くメンバーになった私は、早速脚本を執筆する講座に入った。
ある絵画を見てそこから小さな脚本を書いてみたり、プロットを出し合って他の人のものを見たりした。
他の人のプロットを目にするので、否が応でも自分のプロットと他人のプロットを比較してしまうことになる。
その時だった。私は「今まで宝塚ばかり見ていた」という事実に打ちのめされた。
プロットの作成に追われていた時から薄々気づいていたが、私はゲーム依存脳ならぬ、宝塚歌劇依存脳だった。
ゲーム依存症の人は、その人の思考回路そのものもゲームに乗っ取られて、ゲーム依存脳になってしまうという。
それが私の場合、思考回路そのものが宝塚歌劇に乗っ取られて、宝塚歌劇依存脳になっていたという訳である。
ゲーム依存脳と宝塚歌劇依存脳、このふたつに大した違いは存在しない。
ただただ、依存する存在がゲームか宝塚歌劇かの違いであるだけだ。
振り返ってみれば、自分が思考回路が宝塚に乗っ取られた"宝塚歌劇依存脳”だったことは、中高時代の自分の奇妙な考え事からもじゅうぶん分かりうることだった。
中学生のとある日、学校の階段が不思議と宝塚の大階段に見えたことがあった。
その時は「私、どれだけ宝塚が好きなんだろう…?」と恋する乙女のような気持ちになっていたけれど、今思えばじゅうぶんな宝塚歌劇依存脳を自覚する兆候だった。
日常生活の鱗片、しかも超現実的な学校の階段がそう見えるのだから、もはや兆候というよりも重篤な症状だった。
そんな私がプロットを書いてみると…。
あら不思議、どんな方向性にしようが、同じような発想ばかりになっているではないか…。
つまり、どんなジャンルの作品(恋愛もの以外の冒険もの、ミステリーものでも)を考えてみても、宝塚しか知らないので発想が非常に限定的、言葉を選ばずに書くと「つまらない」のだ。
ここで私はやっと理解した。
演出助手時代に頻繁に先生が仰っていたことは、「色んなものを見て引き出しを作り、幅広くて柔軟な発想をして、その上での脚本を書くために、宝塚ばかりじゃなくて他のものも見ようね」
ということだったのである。
他の人たちのプロットは、本当に面白かった。
宝塚が死ぬ程好きで何十回も観てきた私より、宝塚は知ってるけど見たことない、機会あれば見てみたいんだよねレベルの彼女たちが宝塚の演出家になった方が、随分向いてるんじゃないか?と思ってしまうくらいだった。
ここから続くのは、私が宝塚歌劇の演出家になる為にも宝塚歌劇依存脳からの脱却をし、複雑な思考回路と発想を得て、その上で宝塚歌劇に向き合おうとする、いわば「治療日記」である。
楽しむだけなのは楽だし、何も考えなくて済む。日常の疲弊は癒され、現実の憂いを簡単に忘れ去ることができる。
だけど、いくら楽しむよりも大変であろうと面倒臭かろうと、その「楽しさ」が何なのかを考えて、時にその楽しいものから離れて客観視してみなければ、「楽しさ」の向こう側の人にはなれないはずだ。
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