【短編】校舎裏のタタンカ
キイアには三分以内にやらなければならないことがあった。急がなければ、次の授業にも間に合わなくなる。校舎の北東、日の当たらない植え込みの陰で、少女は指先を噛み切った。柔らかい肉を押して、浅い傷から血を流す。
玉のような赤い雫が、ほんの一滴。乾いた土に染み込んだ。
それが彼女の考案した、最も恐ろしいものを呼び出すための儀式だった。
キイアの祖母は、インディアン——ネイティヴ・アメリカンの末裔だった。古くからこの大陸に根を張り、土地と生活を受け継いできた誇り高い血筋だ。祖母の祖父……すなわち、少女にとっての高祖父は、中でも最も勇敢な狩人の一人だったのだという。
彼らの狩りは極めて過酷だ。獲物は常にバッファロー。彼らの土地で最も強く美しいその生き物を、彼らは敬意を込めてタタンカ(偉大なる者)と呼ぶ。百年以上が経った今日も、彼らはこの大陸で人間が遭遇し得る最も危険な野生動物の一種だ。
狩人たちは常に命を賭けて、偉大なる者に対峙する。
タタンカの群れを見つけた狩人の一団は、背後から彼らを包囲する。その中から最も足が早く、最も命知らずの若者が、彼らと同じ毛皮を纏って群れの前方へ移動する……。
若者の役割はある種の囮だ。仲間が包囲を縮め、タタンカの群れが逃げ出した時、若者も平原を走り出す。目指すは切り立つ断崖絶壁。崖の下には、武器を構えた狩人の仲間たちが待ち構えている。
バッファロー・ジャンプ。
若者は崖の割れ目に飛び込み、落ちていくタタンカの群れと、もちろん落下の衝撃からも身を守る。崖下に待ち構えていた狩人の仲間たちが槍や弓矢で彼らにとどめを刺し、彼らは衣食住の全てに加工される。
キイアの高祖父は、毛皮を着て駆ける若者の役目だった。曽祖母からしばしば、彼の話を聞かされて育った祖母は、キイアにも同じ話をしばしば聞かせた。高祖父の物語はいつも、彼がどれだけ精悍で素早い若者だったかに始まり、どのようにして死んだかに終わる。
高祖父の死。それは曽祖母の物心がついた頃、実にあっけなく訪れたのだという。精悍で素早かった若者は偉大なる者の群れを率いて駆ける最中、その蹄に蹂躙されて死んだ。
蹄に踏み潰され、奇妙に捩れた男の死体。彼の流した血が、少女の体にも流れている。
「……」
キイアは傷口を吸った。鉄の匂いが口の中に広がる。四分の一を構成するのは、誇り高きインディアンの血統。四分の一を構成するのは東洋から来たニンジャの血統だ。
両親(少女の曽祖父母だ)と共に海を渡ってきた少女の祖父は、全くと言って良いほどに自分の話をしない。それでもキイアは、断片的な情報から、彼がニンジャだと確信を持って
判断していた。祖父の書斎の引き出しには、きっと鋭利な手裏剣が隠されている……。
北東はキモンに通じている。そう教えてくれたのは、少女の寡黙な祖父だった。
自分の血を使って眷属を呼び出す。ニンジャはそうした術を使う。キイアはそのことを、確かな情報筋から掴んでいた。
先祖の血を用いて精霊と繋がる。インディアンにはそうした呪いが存在している。少女はそのことを、祖母から聞いて知っていた。
インディアンの血。ニンジャの血。北東のキモン。一つ一つの効果は交雑や異なる土地で薄められているかもしれない。それでも全てを組み合わせて使うことで、きっと少女が望む通りの効果を発揮するはずだ。
夕暮れの校舎裏で、キイアは再び指先を噛み切る。赤い雫がほんの一滴。乾いた土の中へ染み込んでいく。彼女の考案した【血の儀式】。キイアの思う最も恐ろしいものを呼び出すための儀式だった。
「なあにやってんだよ、インディアン!」
二次性徴にかすれた声が、背後からキイアを嘲った。同じ色の忍び笑いが広がっていく。振り向いた先に誰がいるのかはわかっていた。パリッと糊の効いた少年と、それを取り巻く少女たち。デニスとそのグルーピーだ。
グルーピーの一人がデニスに耳打ちする。少年は芝居がかった様子で「インディアン」を「ネイティヴ・アメリカン」に訂正し、侮蔑的に笑った。この場ではそのことが何の意味も持たないことを、この場の全員が理解していた。
だから、デニスは笑ったのだ。
「ネイティヴ・アメリカンのフリークス。こんなところで秘密のお遊びか? おっと……」
キイアが握りしめた指先からは、血の滴がぽたぽたと垂れていた。少年は目ざとくそれを見つけると、月の物に準えて少女を嘲る。再びグルーピーたちの間に忍び笑いが広がった。
もしかすると、彼らはキイアを少し侮っていたのかもしれない。彼女は幼すぎて、彼らの言葉を半分も理解できないだろう。揶揄われていることにも気づかないに違いない……。
大間違いだった。
インディアンの血。ニンジャの血。両親から受け継いだニューヨーカーの血……キイアは複雑に混交した自身のルーツがまとめて侮辱されていることを、十二分に理解していた。
だから、キイアは今日まで【血の儀式】を続けてきたのだ。
「おい、なんとか言ってみろよ。唖か、お前?」
今度の言葉も、キイアには完全に理解できた。少女は言葉すら失って、大柄な年上の男をじっと見上げる。握り締めた拳の中から、血の滴がこぼれた。
毎朝、毎夕に一滴。毎日合わせてたったの二滴。少しずつキモンに積み重ねられてきた【血の儀式】が急速に進行していく。
「……?」
キイアは顔を上げて、耳を澄ませた。
「どうした、ジャップのネイティヴ・アメリカン……」
デニスの声が尻窄みに消える。少年も、キイアと同じ音を聞きつけたらしい。すなわち、唸るような地響きを。蹂躙された街が上げる灰色の悲鳴を。そして、近づく無数の蹄音を。
「地震……?」
怯えたグルーピーたちが不安気に身を寄せ合った。違う、とキイアにはわかった。祖父が語る地震の記憶は、こんな風には始まらない。
キイアは足元のキモンを見下ろす。少女の流した血、その最後の数滴が、地面に染み込み消えていくところだった。
インディアンの血。ニンジャの血。北東のキモン……。本当の意味ではキイア自身すらも信じていなかった【血の儀式】は、確かな効果を上げたらしい。校舎に近づく土埃の渦に、少年がわずかにたじろいだ。
キイアが最も恐れるもの。高祖母と祖母から順に受け継ぎ、少女の脳裏にもこびりついた唐突で無慈悲な死の記憶。
少女は乾いた口角を持ち上げて、獰猛に笑った。
全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが、キイアの下へやってくる。
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