小説 中年と海、と池 その2
「あのさ、みな夫婦でってことになってるんよね、ごめんね、なんか関西の財界のえらいさんがあつまるらしくて、なんというか」
「いや、ええよ」
「ほんとごめんね」
ゴルフは予選も含めてそこそこの日数をかけることはしっているが、昔の同居人はプロゴルファーではない。一緒に暮らしていたころはだいたいいつもスマホでゲームをしていた。それが夏場にゴルフである。離婚してから何があったよ。そちらの世界は楽しいか。ま、きっと楽しいんだろう。
この車を売らなくてよかった。よほど売ろうかと思ったのだが、行動するのが億劫というだけで残しておいたのだが、今日ほど残しておいてよかったと思う日はない。息子と釣りに行くというのに、何キロも歩いていては釣りどころではない。歩いて歩いて歩いて、ようやくたどり着いた海で竿をだして釣れたのは、地下足袋片方だけなんていう結果になってはやってれない。自動車という体力を削らない乗り物で移動することで地下足袋が釣れるようなことがあったとしても
「明人、わかるかい、いくら魚を釣ってもさして思いは残らない。といって遺体を釣ったら、事が重過ぎる。釣りで地下足袋を釣る。それが軽すぎもせず、重すぎもしない、ちょうどいいってもんなんだよ」
なんて教えを説ける。それというのも車があるからだよ。ありがとう車。今ガソリンってこんなに高いのって感じだね。知らなかったんだけど。タントに乗っていざ釣り堀公園。
わりと駐車料金とるんだね、まいいんだけど。
思い出はケチってはならない。釣り具屋で買った釣り道具はあれやこれやのこれやあれやで結構な荷物になった。クーラーボックス、竿、仕掛け餌を水汲みバケツ等をいれたリュック、俺荷物だらけ。雨上がりの釣り公園は暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い。
「暑いのいやや」
「こら、おまえね、おまえね、そういうことをいう人間になってはいけないぞ、あのね、お前は竿しか持ってない、俺は竿以外すべての道具を持っている。そういのが大人として振る舞いというものだからいいのだけれど、いいのだけれど、暑いいややってのをお前が言うてはあかん、な、だいたいお前が釣りをしたいっていうたんやろ、ね、わかります」
「よおわからんけど、もう言わない」
「ほんで、あなたね、やりたいこと言うたら釣りかサハラ砂漠言うたのだよ、これを暑い言うたらサハラ砂漠なんかもっと暑いんやから」
「じゃ暑くないサハラ砂漠がしたいわ」
「今日は暑い釣りをするからね、もう嘆かないでね」
「嘆くってなに」
「ああああ、帰りたい、釣りなどしたくないとかを口にすること」
「わかった、いわない」
入口で入場料を払う。大人三百円、こども二百円。ここは池ではなく、海釣り公園、逐一金がかかる。駐車場代が一時間二百円だったので、三時間いるとして六百円。釣りという遊びは失業者にあまり優しくないように思う。
コンクリートの階段を降りると海が見えた。午前中雨が降っていたのに、たくさん人がいる。どうしたらいい。もう少し人が減るのを待つか。この蒸し暑い中ただただ待ちたくはない。といってここで帰るのももったいないような気がする。
「な、釣りせえへんの」
「いや、人の数がものすごいから、お父さんもこんな混んでるところで釣りやったことないから隣の人と糸が絡んだらあれやなあ思って、今どうしたもんかとぼんやりな、とりあえず歩いてみよう」
「えええ」
「ま、歩いてみようや」
魚は釣れるのだろうか。十年前は一匹も釣れなかった。しかしあの時はルアー、疑似餌というやつで餌ではない。釣り具屋のお兄ちゃんが言っていた、ワンチャン大きな魚が釣れるかもしれない仕掛けは大物サビキと呼ばれるものらしい。
「サビキならまず坊主はないですし、針が大きいと、ワンチャン」
ワンチャンがあればいい。あればいいのだが、ただ現状、竿を出す場所がないのだ。ぼんやり歩いて竿が出せそうなスペースを探す。マスクをしている人、マスクしていない人、半々だ。みな思うように生きればいい。マスクなしの会話は駄目で新社屋建設は異議なし、そんな奴らの集まりが嫌になった。それだけか。周りの人間が馬鹿に見えたのは確かだが、辞めるタイミングを探してたのも確かだろう。たまに、釣れている人がいる。魚の種類はよくわからない。手のひらよりも少し大きい感じ。あれでいい。ワンチャンは別になくていい。なにせ釣れたらそれで十年越しの思いは達成できるし、明人も楽しいだろう。何も釣れないのに、ルアーを投げ続けたあの頃にさようなら、夏の日、いつまでもその胸に。
「あのさ、暑いって一回だけ言うていい」
「ええよ」
「暑い」
一番端まで来たが、空いているところはない。
「はい、折り返すぞ」
「このまま歩いて終わるってことはありえる」
「言うてる間に空いてくるわ」
一人で釣っているおじさんがいたり、家族連れがいたり、わいわいがやがやしてる若者集団がいたり、露出しては法に触れるという箇所以外は露出している女の子がいて日傘をさしている。その横でおじさんが魚を釣っている。女の子はずっとスマホを触っている。娘にしては歳の差がなさすぎる気がする。女の子はつまらなさそうだ、という二人を通り過ぎたら、一番端。赤いジャージのおじいさんが釣っている。その端が空いている。
「ぼく、ぼく、ええな、お父さんと釣りか、な」
「うん」
「えええな、釣りに来るときはそんなええ格好してたらあかんで、イギリスの皇太子みたいな恰好して」
ジーンズとTシャツが皇太子のようにはみえないが、高い服ではあるらしい。
「そこまで気にせんでいいけど、できるだけ汁が飛ばないもの食べさして、わりと高い服やから」
と元妻からの電話で言われている。
「セレブのゴルフコンペに行くぐらいなんやったら、食べこぼしぐらいええやろ」
「高い服やからまた売れるんよ、あんたは多分一生わからんやろうけど金持ちの男はほんま細かいねんから」
おじさんはラジカセを横に置いている。
「魔法の音楽かけたるわ、これかけといたら、ええの釣れるで僕」
といって再生ボタンを押した。流れてきたのは
「貴様と俺とはあああ」
が歌いだしの軍歌。そりゃおじさんの隣が空いているはずだ。軍歌を聴きながら釣りをするのか。できたら穏やかにいきたかった。たとえばオリビアを聴きながら釣りたかったよ。事態はじわじわとまずい方向に向かっている。明人がおじさんと楽しくやりだしたのだ。おじさんのクーラーボックスを見ながらおじさんの魚解説を聞いている。楽しくやれるのが一番だが、軍歌を大音量で流しながら釣りをする人間とは距離を置いた方がいいと思うぞ。
毎日毎日ルアーを投げていたのは、遠い昔のこと。糸の結び方をまったく忘れたわけではないが、より確実にということでスマホを開く。視力がおちたか、手先が鈍くなったか、なかなか結べない。
「お父さん、俺やったろ」
「いや、ま」
「ええがな、やったるがな」
「あ、すんません」
え、お、これは、となるが、そこは顔にださないようにつとめる。あっという間に仕掛けができる。
「ほんで、それ、カゴ、カゴ、そう、それをハリスの下につけて、そこに餌をいれて釣るんや、な、これしかしでっかい針やんけ、これは、でかいのしか喰わんぞ」
「ああ、はあ」
ワンチャンなど狙わなければよかった。こんな暑いのに、ゼロチャンで終わるのはすかたんな一日ではないか。
「お父さんの竿もやろうか」
「いや、あ、あ、一回自分でやってみます」
「よっしゃ、ほんだら、僕おっちゃんと一緒に釣りやろうか、な、おっちゃん教えたるわ、これだけ大きい針やとなかなか難しいで」
店員にすすめられるがままに大きい針など選ばなければよかった。おじさんは煙草を吸っている。喫煙スペースが入口にあるのだが、堤防で吸っている。おじさんはマスクをしていない。おじさんはクーラーボックスを二つ持っている。魚を入れているクーラーボックスは左脇に。もう一つはおじさんが椅子として使っているのだ。椅子として使っているのかと思っていたが、椅子として使っていたクーラーボックスを開けて缶ビールを取り出し飲み始めた。
「もう、この時間は釣れへんからな、な、お父さんも一本飲むか」
「いや、あの、すいません、あのありがとうございます、今日は車なもんで」
「俺もやんか」
「あああ、いやああ」
「ほなら、チューハイ飲むか」
「あ、いや、車なもんで」
「あ、そう、ぼく、ごめんなおっちゃんビールとチューハイしかもってきてないわ、今度ジュース持ってくるからな、ごめんな、こんな太陽が高い時間の釣りなんかそうそう釣れへんねんから呑まなやってられへんで、な、ぼく、おっちゃんの言う事よおききや」
「はい」
「釣りで大事なのは、海に落ちないこと、人生で大事なのは保証人の印鑑おさないこと、慌てんとやりや、おっちゃんこの辺パトロールしてくるからな、釣り公園の治安を守らんと、忙しいで」
治安を乱す奴が治安を守っている、なんだか政治っぽいね。
「明人、おまえな、もう小学校一年やねんから、ある程度人と人の距離というのを考えなあかんがな、気さくに話していい人かどうかわかるやろ、あのおっちゃん気さくに話したらあかん感じのおっちゃんやないか、どこみてんねん」
「顔」
「あほ、あほ、あほ、あほ、顔なんかみんでええねん、顔でなにがわかるねん、小指をみなさい小指を。両手とも小指の先あらへんかったやないか、小指の先ないのに器用に仕掛け結んでくれはったわ、あのな、おっちゃん戻ってきはったら小指のこと聞いたらあかんで」
「なんで」
「それが人との距離の取り方というものや」
なんとかかんとか自分の竿の糸を結びおえる。針の一番下にカゴをつける。餌バケツの中のアミエビをスプーンでカゴの中に入れる。そして海へ。魚が釣れることを願って。ほんま暑い。暑いのが嫌で嫌でしょうがない。谷中は言った。
「省エネの観点からまだエアコンはいれないでください」
と。
「みなさん、夏は暑いものなんです」
と。
そう、夏は暑いものだ。だからエアコンが発明された。谷中、あなたはバイクが好きですね。ご自慢のバイクをスマホの待ち受け画面にして、それをみなに見せてたよね。それはそれでけっこうなことだけどさ、暑いとか寒いとかしんどいをなんとかするために先人は色々やってきれくれたんだよ。夏は暑いものだとしてエアコンをつけない、移動はしんどいものだとしてバイクには乗らない。そういうのが一貫性というのではないのかね。そんな一貫性のない者が言う
「夏は暑いものです」
で誰がほだされるんや、と思ったものだが幾名かは頷いている者がいて、これはあかん、これはあかんと辟易。その時、藤さんはどういう顔をしていただろうか。また大便を我慢している顔をしていただろうか。確かに顔から読み取れることは多々ある。あるけども、小指にはそれ以上に大事な情報が詰まっている。
「お父さん、いつ釣れるん」
「知らんよ、そのうちや」
「そのうちって何時何分」
「何時何分かを言い表せないことをそのうちっていうねん」
「ふうん」
「あのさ、あと五分やってなんも釣れへんかったら帰ろ」
「おまえ、そんなことある、そんなことある、そんなこと、そんなこと、これ釣り具用意するのに結構な銭つかってさ、まだ十分もたったかどうかで帰ること言い出す奴はもう、あかん、そんなこという奴は晩飯じゃこ三匹だけ」
「いやや」
「そんなこという奴は俺の息子ではないので、俺の家にははいらないでください、新しい方の家に帰って一人で寝てください」
「いやや、な、帰ろうって言わへんからさ、スイッチやってていい」
「ええよ」
五分でやめるんやったら、竿二本もいらんかったやないか。お前は俺の息子か、俺は一年間なにも釣れないのにルアーを投げ続けたぞ、おい、明人。
夏は暑い。だからエアコンのある場所に人は集まるのだ。その頃は「吾輩は猫である」を読んでいたように思う。おねおねおねおねした漫談のような話で人がなぜこの小説をそこまでありがたかるのかわからなかったが、おもしろいと言えばおもしろいという本だった。零時前ガストで吾輩は猫であるを読んでいるおじさんもなかなかに距離をとらなければならない人間だろう。
「吉仲君やんな」
「え」
「俺、吉岡」
背後から声を掛けられ振り向くと
「俺、吉岡」
と言われる。はてである。吉岡とは。吉岡で思い出すのはプロ野球選手、役者、元レースクイン現在の職業は不明、等で目の前にいる大柄の男は思い当たらない。ぼろぼろの黒のTシャツにプレイステーションと書かれたキャップを被る大柄の吉岡を存じ上げない、存じ上げない故存じ上げないのだがという顔をしていたら
「ほら、大牟田高校の」
「あああああ、吉岡君」
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