物語というやつです

残りの人生も少ないのでなにやらええ格好というか、お前がよくもそんなことを言えるもんだねええ、なんてことも書いてもいいのではないだろうか、なんてことを思ったのだ。故に書く。書く。


お前はそんな大した存在かと言われれば、別段対してはいないが、生きてるだけで丸儲けと笑福亭松之助師匠も言っている。物語、私はコントをしている、コントというのは物語だろう。たまに芝居の台本を書く、それもまた物語だろう。

 娘が観てるということで、ハイキューというアニメをよく観ている。これが実によくできている。何がよくできているかとあいまあいまで泣きそうになるのだ。いや、泣いているな。歳をとると、目からもでるし陰部からもよく水がでる。人生というのは夜中に小便で目が覚めるようになってからが大事だと誰かが言っていた。それは誰かというと私だ。そう思うわないとやってられないしね。夜中に小便で目が覚めるようになったらあとは死を待つばかりなんては寂しいしね。しかし、死ぬぞ、人生五十年はあながち間違いじゃないのやないかとひしひしと感じる。だから何ってないけども、今まで以上にビールを味わうとか、靴下に空いた穴に親しみを感じるとか、それぐらいしかでいないが。

 ま、泣くのだ、ハイキューで。これしかし、なにかお話をつくる人間のはしくれ、強引に同じステージにいるとして、ステージに足の小指の爪の垢ぐらいひっかけてる人間からしたら、、、、、ま、そんなに難しくない。涙を誘うのはそんなに難しくない。ま、それがやれるかどうかは別だ。


 内田百閒の「阿房列車」という随筆も読んでいる。ま、これは小説だとする向きもあり、どちらかと言えば小説かなと思う。そういう小説があるのだ。阿房列車。何が阿房かというと用はないけど列車の旅をするというものだ。乗り鉄というものだ。これが実にあほだ。あほでいい。けっしてそこに涙はない。胸をあつくすることは皆目ない。ぐっとくるなんては決してない。

 今でも時にあるが、荷物預かり所というものがある。読んで字のごとく荷物をあずかってくれるところだ。駅で電車からおりる。しかし、2時間ぐらいの空き時間。なんらか動こうと思えば動ける時間だが、積極的に観光するというのがこの内田さん嫌いなのだ。列車に乗るということで旅の目的は完結している、そういう人だ。で二時間の空き時間、ひとまず荷物預かり所に荷物を預けることにする。さすれば次の行動はなにかひらめくだろうという算段だ。で、ベンチに腰掛け二時間。ベンチに腰掛けいるうちに二時間。列車の時刻となって荷物を受け取りに行く。

 ベンチに座っているだけなら何のために荷物を預けたのか。

阿房だ。

 これがいいのだ。実にいい。

人はハイキューに憧れるがその実阿房列車なのではないだろうか。何をもって物語になるか、というのいは、そんなあほながあるかどうかでも決まると思う。昔よくあった漫画の表現。愚か者とは銀の盆を二つ持って股間を隠す舞を舞う者。そんな愚か者漫画だけだろうというとさにあらず、実際にいたそうだ。ある方の上司がそういう方だったようだ。どういう方や。となると、実際にいたからこそああいう表現がうまれたのかもしれない。

それについてはまた後日。

生きてあいましょう。

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