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中島敦『弟子』


勤めていた学校を辞めて一年半にして、8月末から4か月の間、縁あって母校である高校に戻ることになった。無職になっているうちに、自粛期間などもはじまり、「あ、自分が理想に思っていたような社会(全員不登校、行っても行かなくてもいい社会)になってきている」という確信をひそかに強めながらも、まだ社会や学校を信用できない精神状態ではあったが、7月に映画「三島由紀夫VS全共闘50年目の真実」を見て感動し、こういう単身敵地に乗り込むようなスタンスでなら(そして、若いひとがいるなら)行ってみてもいいかもしれないと心変わりしたのだった。また自分が教員をこころざすきっかけになった母校というのは実際どういう場所だったのかを今の目でもう一度確かめたいという思いもあった。6月に暗い部屋でひとり撮り始めた人形劇の動画を若いひとに向けて発表する機会が得られるのはいいことだとも思った。その題材が古代中国の『荘子』であったところに、空いているコマというのがちょうど、誰もやりたがらない「漢文」の授業らしかった。
戻ってみて思ったことは、やはり学校という場所は「儒教」的な価値観が浸透している、それ一辺倒であるということ(そのことに疑問をもっているおとながほとんどいなさそうなこと、生徒は疑問を持ってもなかなか言語化できない、あるいは発言の場がないこと)。西洋近代的な効率的でシステマティックな、カリキュラムという小さな小さな枠の中に、まったく別物で、到底おさまりきるはずのない「漢文」(?)が、日本に根強く残る儒教的な道徳観だけを頼りにあてこまれているのがおかしく感じる。教科書の思想の章には案の定『論語』と『孟子』しか載っていないのだ。
中島敦の『弟子』には、孔子とその弟子、特に弟子の中でも孔子に生涯つきしたがって矯められることのなかった子路との関係が描かれている。教師や学校の枠におさまりきらなかった子路を、教師でもあった中島敦が見つめるまなざしはとてもやさしく、あたたかい。ひとりの人間を何かひとつの役職や立場、思想の中におさめることなんかできないのだ。私は今回、教科、教師、学校、の枠におさまらず、ただの「やかましみさき」として教室に乗り込むスタンスをとろうとしている。私は学校とは別の価値観の存在を伝えたいと思う(それが真の「漢文」かもしれん)。学校があろうがなかろうが、教師も生徒もひとつの枠にとらわれることなく、ひとりひとりが独自の道を行けばいい。これからは、そういう時代になっていくと思う。



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