no.43 2018.11 立場を超えて対話するということ
学校では「ひとりレジスタンス」が続いているのですが、9月から新しい授業がはじまっていました。高校一年生9人と「教育」について考える時間です。これは「総合的な学習の時間」がこの学校の特進コースでは「普段の授業で学べないことを学ぶ」というもので、「心理学」や「言語学」、「人文学」、「落語」など担当の先生の得意な分野で、生徒が調べたり、発表したりする形式で行われています。昨年度末に「新たに「教育」のコマができるので、やりたいひとはいませんか」と職員に一斉メールが来たので、立候補してみたのでした(どうやらだれもやりたがらないようで、非常勤講師の私が当選しました)。私はいい取り組みだと感じましたし、普段の授業の形式とは異なる少人数の授業をやってみたかったのです。
その他のコマは二年生による発表があったのですが、新設の「教育」のコマは誰もいないので、私が壇上で話をして、そのあと一年生が授業を選択しました。もしかして開講しないかもな、それはそれでいいや(レジスタンスにも疲れた)と思っていたのですが、ふたを開けてみると9人もいるじゃないか! それはそれでやっぱり嬉しいものでした。私の演説「教育という言葉に対して違和感をもっているひとに来てほしい」(学校の舞台で言えてすっきりしました!笑)に9人も集まったのは、ひとりレジスタンス中の私の「希望」でした(私が好きな四字熟語は「半信半疑」だと言っていたことに興味をひかれて選んでくれたという方もいました)。
この時間に取り組んだことについては、またまとめていこうと思うのですが、授業の内容とは別に(もちろんつながっているのですが)「よければ交換日記をしたい」と提案して現在7人と交換日記中。その中には宝のような言葉がたくさんあります。
◎私は授業を受けるのが学ぶことでその他は違うとは思えないです。教育というのは人間一人一人が成長するためにすることだと私は思うので、居心地が悪いことが何回もあります。
◎私は「やれ」と言われてやる勉強がすごく嫌いです。それには色々理由があって、私の中で、自分からやらないと勉強って言わないと思ってます。する、しないは自分で決めることやし、自分のためにやることやから、やらないならやらないでいいと思うし、わざわざ他人に「やれ」と言う意味がよくわかりません。
◎(部活で途中から来た先生と合わず)苦しい環境でするのは苦痛の他なにものでもないのでやめました。
生徒が1ページ書いてきたのに対して、6ページ返すということがしばしば起こっているのですが…次が返ってくるか心配しているところです。前に立つ経験をしたことのあるひともあり、難しさや危険性の話もしています。
◎押しつけにならずに意欲を引き出すことは難しいですね。必ずリスクを負うことになる。なるほどー。私は押しつけられる≒納得がいっていないだと考えます。実際納得がいかないことはやりたくないし、反抗したくなります。だから何事にも納得し合う納得するまで説明することで「押しつける」ことにならない…??のでは?? しかしここで、納得しない人、違う考え方の人は絶対にいます。その人たちに納得してもらうことは押しつけになるような気が…。これがリスクですかね…。
説明する、説得することがとても大切だ!!!と今切実に思っています(自分もまだまだ足りていないと感じる)。表現というのは「精度の高い説得」だと思う。おとながこどもを説得することも必要だけれども、こどもがおとなを説得していくことがもっとあっていい(足りていない)と思うのです。おとな(力の強いもの)がしゃべりすぎで、こども(力も弱いもの)の話を聴かないということが常習化しています(一方通行の一斉授業が一般的になっているように)。善悪とか、損得とか、勝ち負けとかそういうことではなくて、まず聴くということがないとお互いに「成長」(成長というより、「変化」と言いたい)できない、つまり共存できないんじゃないでしょうか。
それで納得いかないまま学校を、仕事を辞める(辞めさせられる)ということがたびたび起こっている気がします。辞めることは全く悪いことではないですが、なぜか悪いことのように責めてしまうものです。このやるせない気持ちはどうしのいだらいいのでしょう(ここから歌やおどり、ことばが生まれるのかもしれない)。
誰かひとりがいなくなっても、あたかも辞めたひとひとりの責任(自己責任)かのように扱われ、なかったことにされ、表面上今まで通りの日常が繰り返されますが、果たしてそれでいいのでしょうか。それは往々にしてそこに残るひとたちが変化するための努力をしなかった結果のように思われます。ひとりで努力してもどうしようもないことでも、全員が立場を超えて話し合えばどうにかなった、もう少しましだったはずのことも多い気がしてなりません。
普段から、本音で話をするということが圧倒的に足りていないと感じます。タブーをとっぱらって。それが問題を未然に防ぐ予防策になるのではないでしょうか(力のあるもの、前に立つものは常日頃その土壌を耕しておくのが仕事だ)。お互いに当然と思っていることを打ち破って、相手を尊重しながら居心地の良い時間・空間・人間(じんかん)を模索していきたいのです。
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2015年の開校から毎月一回書き始めたずぶの学校新聞の第一期。冊子の方はなくなりましたのでオンラインマガジンにしました。全50本です。転機…
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