蒸発

「蒸発してますね、あなた」
「は?」
医者はこともなげにそう言った。
「蒸発、してます」
「蒸発ですか…?」
「はい。蒸発です」
彼がなにを言っているのか、理解できない。
「蒸発って、水とかを部屋に置いとくと、しばらくしたら水嵩が減ってる、あの蒸発ですか?」
「そうです、その蒸発です。こうしている間にも、あなた、少しずつ空気になっていってますよ、気付いてます?」
「え、そんな、困ります」
換気の行き届いた診察室の空気は澄んでいる。
「身長、158センチあったでしょう、もともと」
「はい」
「5センチくらい縮んでますね、いま」
「止められないんですか?」
「止められないんですよね、これが。なぜ起こるのか、どうしたら止められるのかわかっていません」
「でも、全部蒸発しきったら、死ぬってことですよね?」
「死をどう解釈するかによりますね」
「今はそんな哲学的な話はいいんです」
「まぁ、あなたのその形の体は残りません」
医者は、眉一つ動かさずにそう答えた。
「なんとかしてくださいよ、医者でしょ」
「そう言われてもね。医者は医者ですよ。神様じゃない」
こうしている間にも、私は少しずつ蒸発して、嵩が減っているのだろうか。私は身震いした。
「神様じゃなくても、病気を治すのが医者でしょう。あなたは診察室で患者が蒸発していくのをただ見てるんですか?」
「う〜ん。じゃあもう、帰っていいですよ」
「は?」
「我々にできることはないので。大学病院にでも行けば、詳しく見てもらえるかもしれませんが。あなたのその体だと持ってあと6時間くらいかなあ。どうせ彼らにも治せないでしょうし、残された時間を有意義にお使いになった方がよろしいんじゃないでしょうか」
あまりの唐突さに、怒りすら忘れてしまっていた。
「余命6時間、ということですか」
「そうですね。だんだん嵩が減って、6時間で完全に蒸発します。その間に、やり残したことをなさったらよろしいかと」
「急ですね」
「ほとんどの病は急ですよ」
「私はこんなに元気なのに」
「蒸発している、という点を除けばね。お代は結構です。お大事にどうぞ。ああ、そうだ、今日は炎天下なので、蒸発が早まるかもしれません。お気をつけて」
なんの実感も得られぬまま、私は病院をあとにした。そもそも私は液体ではないのに、なぜ蒸発するのだろう。

「蒸発している、らしい」
「は?」
友達は、また私が突拍子もないことを言い出した、と呆れた顔をする。
「本当だよ。前に会った時より私が小さいの、わかる?」
「言われてみればそんな気はするけど、いや、でも、蒸発ってなんだよ」
「蒸発は蒸発。医者に言われたの。だんだん嵩が減って、最後には全部空気になるって」
「死ぬってこと?」
友達の瞳が深刻な色を宿すのがわかった。彼は私を疑わない。ずっとそうだ。
「死をどう解釈するかによるね」
「こんな時に哲学の話してどうすんだよ」
「まぁ、人間の私は、死ぬ。死ぬっていうか、消える?」
「それ、いつ?」
「6時間後」
「止められないの?」
「無理らしい」
「なんで」
「わからない」
友達は困った時いつも、こめかみのあたりを押さえる癖があって、私は彼のその仕草が好きだ。
「6時間、6時間ね、ちょっと待ってて。ここにいろよ」
彼はこめかみを押さえていた右手に財布を持って、外へ駆け出していった。一体なにをしようと言うのだろう。部屋の時計をふと見ると、病院を出てから1時間が経過しようとしていた。単純計算なら25センチくらい縮んでいてもおかしくないけれど、まだそんなに小さくなった気はしない。
待っている間、私は部屋の中で妙なものを見た。見たというより、感じたに近いかもしれない。部屋の中にいるのに、世界の全てにいるような気がした。蒸発していった私の体が、診察室の通気口を抜けていく。

「死をどう解釈するかによりますね」
医者はそう言った。この体が全部蒸発した時、私は一体どうなるのだろう。

部屋に戻ってきた時、彼は大量のガムテープを袋いっぱいに抱えていた。
「なに、それ」
「目貼りする」
「目貼り?」
「空気になったお前が、どこへも行かないように」
彼はそれだけ言うと、丁寧な手つきで、素早く部屋の隙間にガムテープを貼り始めた。
「そんなことしたら、一酸化炭素中毒になるだけだよ」
私が咎めても、彼は目貼りする手を止めない。
「別に死んでもいいよ、お前が死ぬなら」
「死ぬんじゃない、空気になるんだよ」
「いや、だからそれって死んでるのと変わらないだろって」
「ついさっきまで私もそう思ってたけど、違うよ」
違うことがわかった。私の一部は既に世界中に散らばり、あらゆる地点に偏在している。
「私はバラバラになって、そこらじゅうに広がるけど、その全てが私だから」
「なに言ってんだ、お前」
「だから、心配しなくていいよ。私はいなくなるんじゃない、水と一緒。巡るだけで、無くなるわけじゃない」
「お前にとってそうでも、俺にとってはお前が死ぬのと同じだよ」
「でもこんなのやめなよ」
「やめない」
ベランダの窓の辺をガムテープで止めながら、彼はそう答えた。私の身体はひとまわりほど小さくなっていて、そのせいか力がうまく入らない。
突然心臓がどくんと跳ねて、頭の中にたくさんの場所の映像が流れ込んで来た。一体なんだって言うんだ。私は目眩がして、部屋の真ん中でうずくまった。時計を見ると、残された時間はあと4時間になっていた。
彼はそんな私をよそに次々と目貼りして、最後には玄関の戸が開かなくなった。
「さっきも言ったけど、俺は死んでもいいと思ってる」
「どうして」
「お前がいなくなるから」
「だから、私はいなくならない」
心臓がまたどくん、と跳ねて、どこか遠くの景色が、一瞬眼裏に浮かび上がって、また消えた。青い空の広がる、どこかの美しい浜辺。
「なってるんだって、今まさに」
「だから、違うの。ここにいるの、私は」
心臓が鳴る間隔が、少しずつ少しずつ短くなっていく。私は彼の身体を指さした。気体の私が、彼の喉から肺へと入り込んで、そこから血液を介して身体中を巡る。触れていないのに、彼の体の温度が、私にはわかる。
「ここ?」
「その空気が、蒸発した私」
「訳わかんない」
「流れ込んで混ざってくるの、だんだん」
「混ざるって、何と」
「全部」
心臓が跳ねるたび、確信は強まっていく。私はどこにでもいる。駐車場に泊まる車の中にも、さっきの病院の待合室にも、さっきの医者の肺の中にも、看護師の鼓膜のそばにも、この部屋の中にも、彼の体の中にも。
「嫌」
絞り出すように彼がそう言った。私はぼんやり彼を見ていた。持ってあと6時間と言われて、真っ先に彼に会いに来たことが私にとってどういう意味を持つのか、私はよくわかっていた。なんならずっと昔からわかっていた。彼のことをただの友達だと思ったことは一度もなかった。だけどそれ以外の何という関係にもしたくなくて、友達と呼んでいた。
彼が本当は何を望んでいるのかも分かっていた。分かっていたけれどわからないふりをした。だってそれは私の望みではないから。
二重写になった視界から、仲睦まじく街角を歩くカップルが見えた。手なんか繋いでもどうにもならないのに、どうして人は手を繋ぎたがるんだろう。
「俺は嫌だよ」
もう一度彼がそういうのが聞こえた。彼が震わせた声帯の一番そばにある空気は多分私だと思う。この人が私を名前で呼ばないところが好きだった。自分という人間の輪郭がどこまでもどこまでも曖昧になるような気がするから。心のどこかで私は空気になることを望んでいたのかもしれない、とふと思った。
触れたいと思ったことはなかったけど、頭の中に入りたいと何度も思った。その眼に私を映さなくていいから、喜びも悲しみも忘れられない過去の記憶も悩み事も殺したいほど恨んでる人間のことも、すべて知りたかった。この人を構成する一部になりたかった。ようやく望みが叶うんだと、その時理解した。
「私は嬉しいよ」
だからそう言った。こういう感情を表す言葉がこの世にないのは、やっぱり私がおかしいからなんだろうか。
「ごめんね」
口を開き、そう言ったのは彼なのか、それとも私なのかわからなかった。
彼は黙ったまま、玄関の方を振り返ると、手をガムテープの方へ伸ばした。私はそれを、私の目と、彼の体の中から見ていた。
ビリビリと音を立てて、彼がガムテープを剥がしていく。部屋の中にいた私のうちのいくつかが、隙間から外へ逃げていく。もう一度時計を見ると、残り3時間になっていた。時間が経つのが妙に早いような気がする。
「俺じゃないみたい」
彼がそう言った。
「たぶん、私をたくさん吸い込んだせいだと思う」
それで私がそう答えた。だけど彼の声帯が鳴っていたと思う。
「飲まれていくみたい」
「逆じゃないかな。君が私を吸い込んでいるんだから」
「俺がどうして目貼りしてまでお前を閉じ込めたかったか、わかる?」
「うん」
「それって、俺の体の中にいるから?」
「ううん、知ってた」
「そうなんだ」
彼はそれだけ言って、子供の頃くらいの背丈になってしまった私の頭に手を置くと、じゃあもう何も言わなくていいか、と独り言のように呟いた。
私はあらゆる場所に拡散し、だんだん自我がなくなっていって、それが恐ろしいのか嬉しいのかも、もうわからなくなり始めていた。
頭に置かれる手の感触は刻一刻と薄らいでいく。医者は持ってあと6時間だと言ったけれど、それよりもずっと早くに、私のほとんどは蒸発するのではないだろうか。去り際に、今日は炎天下なので云々、とか言っていたような気もする。もう何を言われたのかも朧げになってきているけれど。
「ありがとね」
「何が?」
「私を閉じ込めようとしてくれてありがとう」
「辞めさせたくせに」
「私が君でも同じことをしたと思うよ」
「俺がお前でも辞めさせてたと思う」
「じゃあ同じだね」
「でも俺、お前に──」
最後に彼が何かを言いかけるのが聞こえたけれど、その時にはもう私のほとんどが空気になっていた。
世界と私の境目がなくなる時、彼と私の境目もなくなるんだろう。そう考えたのが、私の最後の思考だった。

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